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【特集:ポピュリズムをどう捉えるか】
メディア政治とポピュリズム ──テクノロジーの変化が支えるイメージ政治とその構造

2020/02/05

イメージ政治の時代とポピュリズム

良くも悪くも、理性に基づく政治的選択はますます困難になり、イメージが現在のコミュニケーションの中心になったことで、政治においてもまた存在感が大きくなっている。政治や現代における動員にとってもイメージの活用が効果的かつ欠かせないものになっている。このように知識や論理よりも、イメージが重要視されるとともにそれらによって政治が駆動され、政治(政策)の内実がよくわからないままに何となく政治的決定が進んでいく状況と構造を筆者は「イメージ政治」と呼ぶ(図1)(西田 2018)。

メディアや規範を含め社会が変化していくなかで、イメージが新しく政治的争点として析出され、状況に適応した政治が新しい政治イメージを発信し、社会がまた反応するという循環の構図である。ここでいうイメージはあくまで主観に強く依存したものであり、前述のコミュニケーション手段の変化が加速させている。政治は情と理で動くといわれるが、政治はイメージという情に偏った発信に過剰適応していきかねないし、事実、「志はいささかも揺るがない」という2018年の自民党総裁選において使われた、わかりやすいが内容のないキャッチフレーズを想起するとその不安もいっそう払拭し難いものになる。

ポピュリズムとイメージはどのように関係するのだろうか。イメージ政治において、多数の動員のための理性的な手がかりや共通項は減少し、説得コストが増加する。説得以外に多数の共感を獲得するために、プリミティブな脊髄反射的反応の契機としてイメージが活用されている。いま、多数派を形成することができるのは脊髄反射的反応を誘発できるイメージとメッセージであり、現代のポピュリズムをめぐって生じているのは政治に関連した脊髄反射的反応を競い、動員に繋がる好印象の獲得競争ではないか。

脊髄反射的反応を競う競争のなかでは理性や知識を期待する説得はコスト高になると述べた。仮にある陣営が説得を試みたとしても、その側から他の陣営が脊髄反射的反応を誘発するキャンペーンを展開するなら、最終的にはどの陣営も脊髄反射的反応を競うほかなくなるからだ。

政治における脊髄反射的反応の超克は、社会のアトム化や大衆社会化を踏まえて、近代以降の社会が向き合ってきた古くて新しい問題である。新たな情報技術に後押しされて難易度が高まった普遍的問題とどのように立ち向かうか、その戦略と手法が問われている。例えば熟慮を促す技術が必要なのかもしれないが、しかし熟慮を促す技術に後押しされた「熟慮」は熟慮と呼ぶに値するものだろうか。問題の広がりはとどまるところを知らない。

図1 イメージ政治とその構造〈筆者作成〉

〈参考文献〉
Levitsky, Steven and Daniel Ziblatt, 2018, HOW DEMOCRACIES DIE.(『民主主義の死に方』濱野大道訳、新潮社)
『ポピュリズムとは何か』(水島治郎、2016、中央公論新社)
『メディアと自民党』(西田亮介、2016、角川書店)
『情報武装する政治』(西田亮介、2018、KADOKAWA)
『ポピュリズムの本質──「政治的疎外」を克服できるか』(谷口将紀・水島治郎編、2018、中央公論新社)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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