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【特集:ポピュリズムをどう捉えるか】
メディア政治とポピュリズム ──テクノロジーの変化が支えるイメージ政治とその構造

2020/02/05

マスメディアの影響力の低下

マスメディアの影響力にも目を向けてみたい。ここでは紙幅の関係で細かい議論をすることができないが、テレビはともかくとして新聞、ラジオ、雑誌といったマスメディアの存在感低下はとどまるところを知らない。おそらく多くの人が体感しているとおりである。新聞発行部数の低下は2000年代の半ば以後急速に進行し、経験的にいえば新聞はもはや40代以下の世代にとってマスメディアとしての存在感を見せられずにいる。確実に、かつての賛否の如何にかかわらず「目を通しておくべきメディア」ではなくなりつつあるのが現実で、雑誌やラジオも同様だ。

付言しておくと、こうした変化は必ずしも内容の変化に起因するものではない。それどころか日本の新聞社についていえば、100年近い歴史を持つ社もあり、蓄積された取材のノウハウ、取材網、リソースが存在する。それらのクオリティと継続的供給という安定性は、総合的に見れば未だに個別のネットメディアが束になってかかっても敵わないものである。いくつかの不祥事や近年のコンプライアンス重視の風潮を受けて、コンテンツの品質はむしろ改善している。そうであるにもかかわらず・・・・・・・・・・・・ 、コミュニケーション環境と手段が変化するなかで、テレビを除くマスメディアは発行部数や視聴者数を、またかつてのブランド力と影響力を毀損し続けている。当然だが受け手にリーチしないメディアが信頼されることも考え難い。

マスメディアの影響力低下に伴って、社会は共通の情報源を喪失しつつあることはもはや自明であろう。例えばインターネットがなかった時代に政治を語ろうとするものは、恐らくは朝刊、夕刊に目を通し、朝夕のニュース番組を見て、左なら『世界』、右なら『中央公論』に目を通しながら政治を論評したのではないか。著名なコーヒーハウスの議論を引き合いに出すまでもなく、公共性にとって賛否はともかく、それなりに同じ情報(源)を共有し、共有された言語や概念で議論を交わすことが前提だったはずだ。

現状はどうか。人々が見ている媒体も、情報も多様になった。SNSが情報接触の重要な契機だとしても、パーソナライゼーションやアルゴリズム、接触時間帯等の理由によって、目にする記事は各自によって相当程度異なったものになっている。

マーケティング手法を取り入れる政治

議論のための概念や言葉の自明性も揺らいでいる。例えば、現在の日本では「保守」が人気だ。与党も野党もそれぞれ「真の保守」を主張している。「保守か、革新か」ではなく、「どちらが真の保守か」が主題だ。「保守」と「革新」という概念から想起する政党が逆転しているという指摘もなされるようになっている。このとき「保守」と「革新」という言葉を使って議論をするにしても、世代によって、論者によって踏まえる概念が多様になっているだけに、議論や説得に必要なコストは確実に増している。

そもそも政治的選択において、「生の政治家」の発言や発信を参考にし、そのなかでも客観的事実や主張を踏まえて投票するという人はそれほど多くはあるまい。有権者の大半はメディアの人気コンテンツの合間に―報道番組が扱う数あるニュースの1つとして、〝ヤフトピ〟の1つとして、タイムラインのつぶやきの1つとして、あるいはプッシュ通知で送られてくる主要ニュースの1つとして、一瞬目にした政治家や政党のイメージを手がかりに政治的選択を行っているのではないか。政治は2000年代に入って以来、現代的なマーケティング手法を積極的に取り入れるようになった。インターネットを用いた選挙運動が認められるようになってからは、各政党ともに情報収集と分析、データに基づく戦術改善を通じて、積極的に新しい情報武装を模索している(西田 2015、2018)。

現実政治とその背景を事実上、ほとんど扱わない政治教育にも課題が残されている。多くの有権者は自民党の歴史や業績を説明できず、むろん共産党のそれらも説明できないどころか、長期政権の影響もあって現役総理大臣を五代も遡ってみるとその名前すら思い出すことが困難な状況だ。投票年齢の満20歳以上から満18歳以上への引き下げに際して、日本版主権者教育の重要性が語られたが、状況に著しい変化は見られない。制度改正直後を例外として、最近では低投票率が続く20代とほぼ変わらない水準に収束したようだ。政治の知識に乏しく、情報源も多様化し、コミュニケーションの標準がイメージ中心になるのであれば、イメージを手がかりに投票するほかあるまい。

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