三田評論ONLINE

【特集:「在宅ケア」を考える】
「平穏死」を迎える場を考える

2019/12/05

命の仕舞い方

病院でただ延命を願って最期まで水分や栄養を補給しても、体はそれを処理できません。実際に介護の場で食べていても、老衰の身体が死への準備態勢に入ると、それが身につかず痩せ細って来ます。その時が来ると自然に死に向かうのです。それなのに死を前にすると人間の心は様々に揺れます。このまま何も医療をしないでよいのか、医療でまだ生かせられるのではないかと思います。

この世では突然想定外のことが起きます。今日にも我々の足元で直下型の地震が起きるかもしれません。三陸海岸では地震に続いて川の水が引くと、津波が来ることを土地の人たちは先祖から伝え聞いて知っていました。すぐ裏山にかけ登れば助かったのに、幼稚園に行った娘を、家にいる老いた親を迎えに行って津波にのまれて亡くなった人が沢山ありました。逃げ出せば何人かは助かったかもしれないのに逃げなかったのです。この人間の異常なまでに崇高な、しかし結果的には不合理な行動を、心理学では「正常性バイアス」と言うそうです。この損得を超えた人間の行動、思い、人間愛、これも人間です。これは哲学、宗教の世界です。

仏教は根源的思考と言われ、ものの背後に宿される意味を感得する見方です。「老病死」、これを自分の受けるべき定めと受け止めると自(おの)ずとあるがままの知恵に導かれます。

「自(おの)ずから然り」、すなわち東洋的概念「自然」の生き方です。これに対して西洋的概念「Nature」は、それを支配する対象とみなします。医療は人間の一生のためになってこそ意味があります。西洋医学では身体の疾患を支配、整備する対象とみなします。したがって要素還元型に分析治療します。

かつて我々は短命でした。結核で夭折する時代がありました。人生のまだ先があるなら1回しかない人生、頑張らなければなりません。ストレプトマイシン、カナマイシンの出現、医療の進歩のおかげで、我々は長生きできる時代になりました。しかし我々人間は生き物です。いずれ最期が訪れます。介護施設は最早や身体の問題に介入支配する場ではありません。人生最終章の人の心を支える場です。生き方が問われます。

我々は先祖から親に、親から自分に、自分から子に孫に、命のバトンを繋いでいます。その1コマは精々100年の人生です。今や我々の周りには人生最終章の人が溢れています。親の急変に狼狽(うろた)えた家族は救急車を呼びます。方々で救急車の音が聞こえます。救急隊員は「またこのお婆さんを運ぶのか、この前も運んだがこの人のためになっているのか?」と思います。救急外来に着くと家族は延命処置を断る場合が増えています。

介護施設の使命

核家族化した現代では数少ないご家族が、認知症の親や連れ合いを24時間介護することは、精神的にも体力的にも限界が来ます。介護施設では多職種の職員が時間交代で介護しますから仕事が続けられます。社会として助けなければならないのです。

ところが、いつ急変するかわからない状況の高齢者を預かっている多くの介護現場で、常勤医がいないと職員は医療側の援助がない状態での対応を迫られます。家族の中には本人のためになるのか疑わしい場合でも医療施設への搬送を要求する人がいます。介護士不足でも介護施設の責任者は施設の機能を守らなければなりません。

誰しも人生の終焉が近づけば介護施設の世話にならなければならないのです。そこは入所者とそれを支える職員の心の広場です。職員が働き甲斐を持って働けるかどうかが鍵を握っています。老いて人生の最終章に向かう人の心をどう支えるかが問題なのです。そもそも医療が上で、介護が一段下のように思われていたのは、人間とは何か、人間の一生とは何かを忘れていた我々自身の生き方の問題だったのです。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事