三田評論ONLINE

【特集:「在宅ケア」を考える】
「平穏死」を迎える場を考える

2019/12/05

  • 石飛 幸三(いしとび こうぞう)

    特別養護老人芦花(ろか)ホーム常勤医・塾員

はじめに

私は約半世紀外科医として人間の身体の部品修理をしてきました。自分が還暦を迎える頃から、老衰の果てに必ず来る死について考えるようになりました。命を助けなければならないと頑張ってきたのですが、ガンの告知を避けたり、高齢の患者さんへの医療がかえって死を早めたりすると、医師として、人間として、これでよいのかと思うようになりました。そこでさらに老衰の世界はどうなっているか知りたいと思って、70歳の時に特別養護老人ホーム(以下特養と略す)の常勤医になりました。2、3年居れば実状がわかるだろう、その時はまた病院医療の世界に戻ればと考えていましたが、まもなく丸14年が過ぎようとしています。なぜこんなに長居したのかというと、ここに、もう1つの医療を見たからです。

自然死

我々はいつまでも生きることはできません。いずれ最期を迎えます。昔の人は年寄りを最期までそばで看ていました。自然死とはどんなものか実感できました。しかし今、日本は国民皆保険で、私が行った終の住処の特養でも、無理やり食べさせて誤嚥させて死にそうになると病院に送ります。だからほとんどの人は自然死を知る機会がないのです。ご家族の中からこれはおかしいと声が出ました。病院から転身して来た私も同じ考えでしたので、何も医療をしない自然死を看て、その平穏な最期の様子に感激しました。私だけではありません、他の職種の職員も皆同じ思いになりました。それが「平穏死」でした。

高齢社会の現状

しかし超高齢化社会になった我が国で病院死が8割近いという現実は、自然死がほとんどないということです。人々が最期まで医療を受けながら亡くなっているのです。日本では自裁は許されていません。『国民の道徳』を著した西部邁さんは、人生最終章が迫って多摩川に入水自殺しました。「おしん」の作者橋田壽賀子さんは3年前に『文藝春秋』に、日本では最期になると延命医療を強制されるので安楽死ができるスイスに行きたい、と書いたら世間が騒ぎました。医療技術の進歩によって治る病が増えているものの、溢れる情報の中には誤解を呼ぶものが少なくありません。老衰や認知症による死への恐怖は逆に異常なまでに膨らんでいます。言わば我々は〝死に場所難民〟です。

本来老いは、死を含めた人生の連続する時間軸上にある生活の終章です。我が国では終末期に入って要介護となった時点から、それまで連綿と続いていた生活を突然その時間軸から切り離して、やむなく病院で最期を迎えさせるケースが少なくありません。老化を重積する病態と捉えて治療の対象にする医療は、人生の終わりに近づいた高齢者に無理で無駄な苦痛を強いています。終の住処と呼称される特養であっても、いよいよ最期になると家族の希望や施設側の判断で病院に送ります。高齢者の誤嚥性肺炎を病院で治せても、衰えた嚥下機能を若い時の状態に戻すことはできません。老衰死も同様に異常ではなく自然の帰結なのです。近年高齢者に対する過剰な投薬、検査が、ようやく問題視されてきました。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事