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【特集:変わるインドと日本】
インド人看護師の国際労働移動とインド社会の変容

2019/11/05

看護師に対する認識の変化

インド人看護師が海外に働きに出る機会が増え、送金で家族が潤い、また先進国のパスポートを取得する機会を得るなど多くの利点があることが知られるようになり、看護師に対する見方に変化が芽生え始めた。かつては看護職に就くことは貧困から脱却する手段の1つであったものが、看護師は海外への出稼ぎ労働でお金を稼ぐことのできる職業、そして先進国での永住権、市民権が取得できる成功への切符として考えられるようになった。つまり看護師の国際労働移動がインド国内における看護師への偏見を軽減し、ひいては看護師の社会的地位の向上に貢献したといえる。このような変化は看護師自身が強く感じている点であり、筆者と共同研究者が2016年にインド南部のタミル・ナードゥ州で実施した調査では、10年以上の看護師経験のある209名へのインタビューで、199名(95.2%)の看護師が10年前と比較して、看護師の社会的地位が向上したと回答し、そのうち138名が著しく向上したと述べている(Oda et al. 2017)。

また国際労働移動は、看護師の結婚市場での価値を高め、看護師は自身より高い身分の相手との婚姻等、より有利な条件で結婚することができるとの報告もある(Nair 2012)。相手側からすると、結婚によってもたらされるメリットと引き換えにある程度の譲歩はできるといったところであろう。筆者と共同研究者がニュージーランドで実施した調査において、独身インド人女性看護師がニュージーランドに移住し、看護職を得て、その後、インドに住む男性と結婚し、夫をニュージーランドに呼び寄せるというパターンが何件か見られた。これは、まさに夫および夫側の家族(看護師が女性であるとは限らないが)が、結婚により、先進国へのアクセスという機会を得た一例である。

看護師の社会的地位が向上することで、かつてはキリスト教徒の職業と考えられていた看護職に、多くのヒンドゥー、イスラム教徒も参加するようになった。さらにヒンドゥー教徒やイスラム教徒が経営する看護学校も多数開校している。看護師に対する認識の変化と人気の高まりは、看護教育を提供する学校数の変化から読み取ることができる。教育セクターへの投資促進という政策導入を背景に、2000年以降、民間を中心に多くの看護学校が設立された。インド看護師協会の統計では、2000年にそれぞれ285校、30校あった看護学校(ディプロマ)、看護大学(学士)は、2015年にはそれぞれ2,958校、1,690校の計4,648校と総数で見た場合、15倍近い増加となっている。いかに短期間で急速な変化があったことがこれらの数字から察することができよう。

おわりに

インド社会における看護師の地位向上は、看護という職業が認められたことによるものでなく、国際労働移動によるメリットによってもたらされたものである点に注意しなければならない。依然として看護職に対する偏見はあり、以前と変わらない見方も存在している。例えば、ブラーミンと呼ばれるヒンドゥー教の身分制度(カースト)の中で最も高位な階級の人たちは決して看護師にならない(と言われている)。またインド人看護師へのインタビューの中で、看護学校への入学の際に、親から海外で働くことを前提に進学が許可されたケースがあった。明らかに親は看護師という職業を認めているわけでなく、海外で働く看護師というステータスを求めているのである。国際労働移動で大きく変わった看護師の社会的地位であるが、看護師という職業の本質への認識が変わるにはまだまだ時間がかかるであろう。

これは他のことにも当てはまるのではないであろうか。最近、景気減速気味とは言え、過去20年間で大きく経済成長を遂げたインドで経済的、社会的な変化が起こっていることは否定できない。大都市のショッピングモールには欧米の一流ブランドが出店し、街は自動車で溢れ、農村は電化され、トイレの普及が急速に進んでいる。一見、大きな変化が起こっているように見える。しかし、看護職に対する根本的な意識のように、根っ子の部分ではさほど以前とは変わっていないのかも知れない。

最後に日本との関係について触れておこう。少子高齢化が進む日本にとって、看護師、介護士の確保は喫緊の課題である。最近の厚生労働省の推計によると、2025年には看護師が6万から27万人不足するとのことだ。日本政府はこの人材不足の一部を海外からの人材で補完しようと政府間協定や民間によるリクルートのサポートを行ってきた。二国間経済連携協定(EPA)に基づき、2008年からインドネシア、2009年にフィリピン、そして2014年にベトナムから看護師および介護士候補生の受け入れを実施している。候補生が日本の看護師資格、介護士資格を取得するには言葉の問題もあり、十分な成果はまだ得られていないが、日本はインドともEPAを締結していることから、今後インドからEPAスキーム下で看護・介護人材を受け入れる可能性もある。また民間レベルにおいては、2017年から開始している介護職の技能実習生受け入れ制度で、民間の老人ホームにすでにインド人看護師が介護実習生として派遣されるなど、今後、日本の医療、介護の現場で働くインド人を見る機会が増えることが期待される。

一方で、海外からの看護師等の受け入れは、必ずしも受け入れ側と送り出し側の両者にとってWin‐Winの関係ではない。インドでは看護師不足が指摘されており、2010年の世界保健機関(WHO)の報告はその数240万と推計している。海外への労働移動がこの不足に少なからず影響を与えていると言える。特に農村部での看護師不足は深刻であり、医療機関へのアクセスが限定的である農村部で看護師が果たす役割が大きく、その不足はインド農村の公衆衛生にとって深刻な課題である。海外で働く看護師やその送り出し家族は、経済的、社会的地位の向上を手に入れることができるが、国家というマクロレベルで見た場合、看護師不足による大きな犠牲が存在する。日本では人材の受け入れのみに目が行きがちであるが、我々は送り出し側の事情も十分に理解する必要がある。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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