三田評論ONLINE

【特集:変わるインドと日本】
「不思議なインド」のゆくえ

2019/11/05

  • 蔵前 仁一(くらまえ じんいち)

    旅行作家・塾員

僕が初めてインドを訪れたのは1983年のことだったが、それから世界は大きく動いた。東南アジアは経済発展し、中東では紛争が激化し、中国は世界第2の経済大国となって、その様相はすっかり様変わりした。僕がこれまで主に旅をしてきたのは「第3世界」と呼ばれた国々だったが、そういった地域の変貌は実に激しい。

それではインドはどうだろう。もちろんインドも経済発展し、国民の平均所得は大幅に上昇した。IT産業も盛んで、多くの都市には地下鉄が整備され、全土に高速道路が建設されている。1980年代のインドと比較すると大変身を遂げている、と書きたいところだが、それがなかなか一筋縄でいかないところがインドだ。中国のように、都市が丸ごとすっかり変わっているとその変化はわかりやすいのだが、インドでは新しいものもできるが、古いものもそのまま残っていることが多い。特に田舎の農村部では昔の習慣や伝統が守られ、中世のような世界が残っている。

それは僕が旅を始めたころから感じていたことで、例えば、西ベンガル州の州都であるコルカタは今では地下鉄が走る現代的な街だが、イギリス植民地時代の建物が残り、今でも現役で使用されている。そこから隣りの州ビハール州へ行くと、電気も満足に通っていない泥造りの家々が並ぶ村が現れ、ときおり武装強盗団が出没するという。金を持っていそうな家は、武装集団から襲われて金品を強奪されるのだ。そのような武装強盗団が山中に根城をつくって潜んでいるというから、まるで中世だ。ビハール州では盗賊団の女親分が犯罪組織から足を洗って、のちに政治家になっている。

僕は今でもインドを旅している。以前と較べると旅は快適になった。南京虫の出るような安宿はほぼなくなったし、インターネットのおかげで日本との通信も簡単になった。物価は高くなったが、地下鉄やタクシーも利用しやすくなったし、新市街へ行くと、おしゃれなカフェができたり、ガラス張りの大きなビルが数多く建っていたりする。

だが、僕がよく行く下町の雰囲気は以前とほとんど変わらない。モダンな携帯電話の店ができたりはしているが、食堂やみやげ物屋や路上のチャイ屋などは昔から同じように存在する。歩いている人々だって服装が大きく変わるということはないし、旅行者に見える下町の風景に変化は少ない。

僕はこの十数年、インドの田舎ばかりまわっている。「アーディバシー」と呼ばれるインド先住民の村を訪ね、彼らが泥の家の壁に描く絵を見にいっているのだ。先住民はインドでは身分が低い人々とみなされ、差別も受けるし、貧しい人々が多い。電気が通っていない村も多く、通っていても貧しさから電気を利用していない家々も多い。

ある先住民の村を訪ねたとき、一軒の家に招かれ、住んでいる家の中を見せてくれたことがある。珍しいことではないが家は泥造りで、6畳ほどの小さな家の内部は電灯がないので昼でも薄暗く、中にあるのは寝具と鍋、皿が2、3枚だけ。それが彼らの持ち物のすべてという貧しさだ。こういう生活は数百年前と同じなのではないかと僕には思えた。このような家がインドにはまだ無数にあるのだ。

だが、その一方で、先住民の村にも確実に変化は起きつつある。僕は壁画を見にいっていると書いたが、そのような壁画は泥の壁に描かれる。多くの先住民の家は泥で造られており、泥の壁に化粧土を塗って、その上に絵が描かれている。

だが近年、インド政府は泥の家をやめてレンガの家に住むことを奨励し、多額の補助金を出すようになった。またトイレの設置運動も全国的に行っている。これを機に泥の家は壊され、レンガの家がどんどん建設されつつある。住む人にとってはレンガの家の方が広く造れるし、手入れもずっと楽だという事情があるようだ。しかし、レンガの家にはもう壁画が描かれることはない。せっかく設置されたトイレはすぐに詰まって、人々はまた用を足しに森の中へ入っている。

インドは長いあいだ、よくも悪くも古くからの伝統を守り、あるいはそれに縛られ、近代化と伝統が混じり合って存在した不思議な世界だった。今でもその不思議さはかなり残っているし、それがインドの一種の魅力だといってもいいだろう。電気も車もない泥の家が並ぶ村の風景は実に美しい。だが、同時にそれは貧困の風景でもあるのだ。

さすがのインドも、国際化が進み、インターネットが発達する時代になると、最も貧しい層である先住民や街を往来するリキシャ夫でさえ携帯電話を利用するようになっている。田舎から出稼ぎにやってきた貧しい労働者が、田舎の家族に電話できるようになったのだ。インドの近代化は今後ますます加速されていくことだろう。「不思議なインド」が消滅する日もそう遠くない将来かもしれない。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

  • 1
カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事