【特集:裁判員制度10年】
裁判員が変えた日本の裁判──もはや後戻りできない刑事司法のゆくえ
2019/10/05
取調べの可視化
裁判員裁判の導入は、宿痾(しゅくあ)ともいうべき、もう1つの日本の刑事手続の問題の解消にも大きく寄与した。すなわち、日本では、犯罪捜査の主たる目的が容疑者からの自白の取得におかれてきた。容疑者の取調べにあたり拷問やそれに準ずるような暴行・脅迫などが用いられてはならないことは当然だが、黙秘権の保障をないがしろにするようなプレッシャーをかけた厳しい追及方法がとられてもいけないはずである。ただ、取調べは密室で行われるため適正さが保たれているかどうかが明らかでなく、後に法廷において、自白の強要の有無をめぐり激しい争いが展開されることもよくあった。取調べの過程を外から監督し事後的にその適法性を審査することができるようにするため(=取調べ過程の可視性を高めるため)、録音・録画を行うことが提案されたが、なかなか実現に至らなかったのである。
この問題も、裁判員制度の導入により劇的な変化を迎えた。これまでのように、自白調書をめぐり、法廷において、取調室で無理な取り調べ、あるいは拷問またはそれに近い強制があった、いやなかった、ということで検察側と弁護側の間で激しく争われるという泥仕合を裁判員の前で展開するわけにはいかなくなったからである。そこで、裁判員裁判対象事件については容疑者の取調べの全過程が録音・録画されることになった。これもまた、裁判員裁判の導入がもたらした大きな革新の1つというべきであろう。
後戻りできない日本の刑事司法
日本の刑事裁判は「ガラパゴス化」しているといわれた。世界で稀に見る珍しい動物が住むガラパゴス島と同じように、世界に稀なる珍奇な「裁判」が行われているのが日本だというのである。しかし、裁判員の参加のおかげで、日本の刑事司法は、ようやくこうしたガラパゴス状態から脱することができたのである。
もちろん、なぜ、そのために国民にこれだけ大きな負担をかけねばならなかったのか、むしろ裁判所・検察庁・弁護士会(法曹三者)だけの努力により、調書裁判の克服は可能でなかったのかということは、あらためて問われて然るべきことである。ただ、法曹三者の間では複雑に利害が交錯していて一枚岩ではなかったし、コストのかかる根本的改革のためには、国民の司法参加により裁判への信頼を高めるという「錦の御旗」を掲げて社会全体から支援してもらうことがどうしても必要だった。国民の協力を得て、ガラパゴス島から脱出するためのノアの方舟が裁判員制度であったということもできるであろう。
裁判員制度への批判は、法律専門家の内部からも強く提起されている。いわく、「事件の真実は、かなりの時間が経過してからの法廷における当事者(検察官と被告人・弁護人)の応酬により明らかにできるものではなく、事件直後の捜査官による徹底した証拠の収集と関係者の証言の書面化を通じてはじめて解明できる」、「裁判官が法廷における当事者のやり取りや証人の証言から心証を得るより、捜査書類を自室でじっくりと読み込む方が事件の真実に近づくためにはベター」、「日本人は、公開の法廷よりも、取調べ段階の捜査官との対話における方がより正確な事実を述べるもの」等々。
しかし、今さら裁判官自室で行われる調書裁判のやり方に戻ることはできない。公開の法廷におけるやり取りの中で事件の真実を明らかにするよう努めることこそが公平な手続であるとするのが国際的な共通感覚なのである。男女の平等に関する普遍的な感覚に抗い、日本独自の文化を根拠として男女の固定的な役割分担を主張しても、もはや時代錯誤といわざるをえないであろう。裁判についても基本的には同じである。裁判員の参加によりはじめて可能となった、公判での当事者のやり取りを通じての心証形成を頼りにする普遍的な裁判のやり方を元にして、われわれの経験と工夫を積み重ねていくべきである。裁判員裁判により切り開かれたこの道は、もはや後戻りのできない道なのである。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
2019年10月号
【特集:裁判員制度10年】
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