【特集:裁判員制度10年】
裁判員が変えた日本の裁判──もはや後戻りできない刑事司法のゆくえ
2019/10/05
裁判員が行うこと
ここから、裁判員が行うことを求められる判断の中味についても理解が可能となろう。裁判員は、プロの裁判官とともに合議体としての裁判体を構成し、刑事裁判をともに担う。裁判員制度について規定する法律である「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(いわゆる「裁判員法」)を見ると、そこでは、裁判所の行う仕事の中で、「法令の解釈」と「事実の認定」と「法令の適用」という3つが区別され、そのうちの「法令の解釈」はもっぱらプロの裁判官が行うこととされ、これに対し、「事実の認定」及び「法令の適用」については裁判員も合議に加わって裁判官と一緒に行う仕事とされている(裁判員法6条1項1号・2号及び2項1号を参照)。それはいかにも難解に聞こえるが、実はさほど難しいことではなく、いわれてみれば当然のこととして理解していただけると思う。
刑事裁判もまた、「ルール違反→罰」の社会的メカニズムの中に位置づけられるとすれば、そこで前提となるのはルールの存在である。そのルールは、刑法という法律により定められている。刑法は社会的に看過できない特に悪質な行為のみに適用を限定した法律であるが、それがいかなる行為を選別して処罰の対象としており、これに対しどのような罰で臨んでいるかは、法律家の専門的知識に属する事柄であって、それを知ることは裁判員に要求されるものではない。「法令の解釈」は裁判官の専権事項とされるのである。たとえば、殺人罪に関する刑法199条は、「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」と規定する。この条文の読み方の技術的詳細は、専門家にまかせておけばよい。
裁判員に求められるのは、まず、この規定に当たる事実、つまり「人を殺した」という事実が本当に存在したかどうかを証拠(残された事件の痕跡)により確認することである。これを事実認定という。ルールを当てはめるためには、それが予定する事実が本当に存在しなければならない。部屋の中で野球のボールを投げることを禁止されていたにもかかわらず、ボールを投げて花瓶を割った子どもを叱るためには、その前提として、本当に部屋の中でボール投げが行われ、その花瓶がボールにより壊されたのでなければならない。もしボール投げの事実はなく、花瓶は飼い猫がこれを床に落として壊したのであったとすれば、その子を叱るわけにはいかない。叱ることの前提は、残された痕跡から推認することにより、正しく事実関係を明らかにすることである。このことは、われわれの日常的な生活経験に照らしても当然のこと(子どもでさえわきまえていること)であるといえよう。
裁判員に求められるのは、事実認定だけではない。刑法という法規の適用(当てはめ)もまた裁判員の役割である。右のボール投げのケースで、もし投げられたボールにより花瓶が落ちて壊れたのだとしても、部屋で一緒に遊んでいた友だちが急にボールを取って投げたために壊れたとすれば、わが子をただちに叱ってよいかどうかは問題であろう。「部屋でボール投げをしてはならない」というルールの存在が明らかにされたとしても、それを具体的ケースに当てはめるにあたっては、ルールの適用にまつわる問題が生じてくる。それをプロの裁判官と一緒に解決することもまた、裁判員の仕事である。
こうして、裁判員に求められる仕事とは、法律の専門家たる裁判官とともに、証拠に基づき事件の事実を明らかにした上で(=事実認定)、ルールとしての法をその事実に当てはめて、間違いなく法の予定する犯罪が行われたといえるかを明らかにすること(=法規の適用)なのである(さらに、ここでは言及できないが、どのような刑がふさわしいかを決めること〔量刑〕も裁判員の仕事に含まれる)。
「法令の解釈」はもっぱら裁判官にゆだねられ、裁判員は「事実の認定」及び「法令の適用」をその仕事の内容とするというのは、右のことを意味しているにすぎない。それは、一般の人の(たとえば、子どもを叱ったり、友人の振る舞いを非難するといった)日常的な経験に照らしても、ただちに理解できることであろう。裁判員に求められる仕事とは、日常生活と無縁なことでは決してなく、むしろそこにおいて日々実践していることの延長線上にあるということが分かるのではないだろうか。
裁判員が変えた日本の刑事裁判
第2の点に移りたい。ここで私がいいたいのは、日本の裁判が、裁判員の参加のおかげで国際水準の「裁判」になったということである。裁判員の参加によるこの変化は、わが国の刑事裁判の歴史においてまさに画期的なことであった。少し誇張していえば、かつての日本の裁判は裁判といえる代物ではなかったが、この10年間でようやく裁判といえるものとなったのである。このことは、どれほど強調しても強調し足りないほど、重要な意味をもつ。逆説のように聞こえるが、それだからこそ、裁判員制度に反対して、これを元に戻すべきだとする根強い反対者がいる。大きな改革が行われるとき、以前のやり方にノスタルジーをもつ守旧派の人々の存在はまさに付きものといえよう。
国際水準の「裁判」においては、公開の法廷で種々の証拠が取り調べられ、そこにおいて裁判官が有罪か無罪かの心証を形成すべきものである。日本国憲法には、「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。」と規定されている(37条1項)。このように、公開裁判が保障されるのも、その場で証拠が吟味され、その場で裁判官の心証が形成されるからであり、その心証形成のプロセスを衆人環視の下に置いて皆で監督すべきだからこそである。ところが、裁判員裁判導入以前の日本の刑事手続は、必ずしもそうではなかった。法廷において、捜査段階で作られた書類の(検察官から裁判所への)受け渡しが行われ、裁判官が事件について有罪か無罪かの心証を得るのは法廷ではなく、裁判官の自室で捜査書類を読みながら、というものであった。
そこで、それは「調書裁判」とも呼ばれた。もし法廷が事件についての心証を形成する場ではなく、捜査書類の受け渡しをする場にすぎないとすれば、それを公開してみても無意味であろう。外国の法律家たちは、日本の刑事手続を見て、捜査の段階で作られた取調調書が決定的な意味をもち、裁判所はそれらの書類を読んで検察官の判断の追認をするだけの形骸化した機関になっており、むしろ検察官が白黒を決する裁判官になっている(そこから、日本人は、裁判所による裁判を受ける権利を奪われている)、と評価をすることもあった。
こうした手続をまさにドラスティックに変えたのが、裁判員の参加であった。裁判員制度の下では、裁判体の構成員(裁判官及び裁判員)が公開の法廷において一緒に取り調べた証拠により、まさにその場で有罪・無罪の心証を形成することとなった。裁判官の自室で、捜査書類を読んで心証を取るという「調書裁判」は克服されたのである。国際的な共通理解に基づく「裁判」の観念の基礎にあるのは、法廷における当事者(検察官と被告人・弁護人)のやり取りの中で事件の真実を明らかにしなければならないし、明らかにできる、という確信である。証人であれば、これを公開の法廷において尋問し、反対尋問のテストにもさらせば、それにより正しい事実認定ができる。これに対し、捜査段階で捜査官が、容疑者や証人を密室で一方的に取り調べた結果を記録した書面を、証拠として信頼することはできない。そのようなものは原則として証拠にならないとされる。そこにおいては、事件の真実は、事件直後の捜査官による証拠の収集と証言の書面化を通じてはじめて精密に明らかにできるとか、裁判官が自室で捜査書類をじっくり読んで考えるほうが事件の真実に近づける、という考え方は基本的に否定されていることに注意する必要がある。
2019年10月号
【特集:裁判員制度10年】
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