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【特集:裁判員制度10年】
裁判員が変えた日本の裁判──もはや後戻りできない刑事司法のゆくえ

2019/10/05

  • 井田 良(いだ まこと)

    中央大学法科大学院教授、慶應義塾大学名誉教授

はじめに

法科大学院制度の創設(2004年)と裁判員制度の導入(2009年)とは、平成期の司法制度改革のもたらした最大の成果であった。それは、日本人が、外圧を契機とすることなく、自らのイニシアチブにより実現した内発的な改革という点で、歴史上、画期的な出来事であったといえよう。とはいえ、法科大学院を中核とする法曹養成制度の改革は、お世辞にも成功したとは評価できず、ひたすら迷走を続けている現状にある。裁判員制度の方は、10年間の運用によりひとまず軌道に乗ったとはいえようが、その「持続可能性」については必ずしも楽観視できない事情もある。

以下では、裁判員制度を取り上げて語ることとしたい。

この制度がわが国に完全に定着するためには、国民の理解と支援が不可欠である。もし国民の気持ちがこの制度から離れていくとしたら、いくら法律専門家が裁判員裁判の現状と問題点を検討し、運用改善のための提言を行うとしてもそれはむなしい。そこで、ここでは、一般の方々の裁判員制度に対する理解と支援を募りたいという気持ちから、この制度につき、ぜひとも知っておいていただきたい事柄を2つにしぼって述べることとしたい。この2つは、国民の理解を得るためにきわめて重要なことのように私には思われるのであるが、法律専門家たちも、どういうわけかそのことをあまり強調しない。私は、そこに注意が向けられないことに日ごろから不満を感じているのである。

「人を裁く」ということ

まず、第1の点からはじめよう。裁判員として裁判に関わることを、日々の生活とおよそ無縁なことへの従事としてイメージしている人がほとんどなのではないだろうか。私は、そのようなイメージは事実に合わないと考えている。たしかに、「刑事裁判」とか「人を裁く」というと、何か特別なことのように感じられるものの、一般の人たちが日常的に行っていることの延長線上に、裁判所の行う刑事裁判がある。裁判と呼ばれるものと同質的な行為は、実はわれわれ皆が日々実践していることなのであり、誰にとってもお馴染みのこととさえいえると思う。

親がいたずらをした子を叱って(たとえば、おもちゃを取り上げるといった)罰を科す。それは、いけない行いであるという否定的評価を伝達することを通じて、子どもに社会生活のルールを理解・会得させるためであろう。ルール違反に対して一定の罰を科すことにより、人が遵守すべき基本的ルールを身に付けさせるという仕組み(「ルール違反→罰」のメカニズム)がなければ、およそ社会の秩序は実現できず、社会はその存立の前提条件を欠くことになる。家庭教育や学校教育(教師による叱責から懲戒に至るまで)のさまざまな場面ばかりでなく、対友人関係や夫婦間の関係、仕事上の人間関係においても、「ルール違反→罰」のメカニズムがしっかりと組み込まれている。社会学者は、人が成長の中でその社会のルールを身に付けていく過程のことを「社会化」と呼ぶが、大人になって犯罪を行ってしまった人は、社会化の過程で基本的ルールを学びそこなった人といえよう。刑事裁判を通じて刑罰を科すことは、社会化という、ルール学習の社会的メカニズムを前提とし、これを補完するものとして理解することが可能である。

このように考えれば、子どもを叱り、友人をとがめ、夫婦の間で互いの間違った行動を指摘し合い、会社の部下に注意を与え、学校や会社において懲戒手続を行うことと、裁判所が窃盗や傷害、殺人の行為者に刑罰を科すこととは、その判断の形式・内容としては本質的に同質なのであり、「ルール違反→罰」の社会的メカニズムの中に、ともに連続的に位置づけられる。裁判所による裁判はその手続も厳格であるが、裁判所によって行われることも、実質的には、われわれ誰しもが行う日常的な行為の延長線上にあることなのである。

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