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【特集:『帝室論』をめぐって】
戦後の思想空間の中での福澤諭吉、小泉信三──『帝室論』に触れながら

2019/05/07

5  福澤諭吉と小泉信三:戦後に『帝室論』を説いたことの意味

日本国憲法が制定される際、昭和天皇は吉田茂に「皇室と国民との関係」を問うた。答えに窮した吉田が慶應義塾出身の武見太郎に問うたところ、福澤諭吉に解があると答えた。吉田は慶應義塾の人物に文部大臣を任せようと考え小泉に打診したが小泉はこれを固辞したとのことである。1947年1月まで小泉は慶應義塾長の地位にあったが、終戦後は、戦争末期に焼夷弾で負った怪我からの回復が十分でなく、高橋誠一郎が塾長代理としてその任に当たっていた。

慶應義塾の責任者を降りた小泉はその後、皇室に深く関わるようになる。1949年、東宮御教育常時参与に就任、すなわち皇太子の家庭教師となりその人生を賭して皇室を支えることとなった。1948年から翌年にかけては昭和天皇に数回、御進講を行っている。テーマは「福澤諭吉」「マルクス」「エドワード・グレイ」であった。小泉は皇太子に象徴天皇を説くにあたり、福澤の『帝室論』の他に、ハロルド・ニコルソンの『ジョージ5世伝』をそのテキストとして用いたこともよく知られている。

戦後の思想空間において福澤諭吉と小泉信三を論じるとき、見逃してはならないのが丸山眞男の存在であろう。丸山は小泉と並ぶ福澤研究の第一人者であり、学術的には小泉よりも丸山の方がよく知られている。しかし、戦後リベラル派の代表格として知られる丸山は、いわゆる講和問題で小泉の支持する単独講和説を激しく難じるなど、その主義主張は対立するものが多かった。おそらく小泉と丸山の分岐点は彼らが論じる福澤の射程の差なのであろう。

丸山の福澤論は、1942年の「三田新聞」に掲載された「福澤に於ける秩序と人間」という小論に始まる。ナショナリズムが高揚する中、福澤の個人主義は批判の嵐に晒されていた。それに対して丸山は能動的な個人によって積極的に国家の秩序が形成されるのであれば、それは個人主義と国家主義とは整合し得ると説き、福澤はそういった意味で「個人主義たることに於て・・・・・・・まさに国家主義者だった」と論じ切ったのである。能動的な個人像を描くあたりは戦後の丸山思想の入り口を感じさせるが、昭和初期の小泉のように、福澤の「瘠我慢の説」「丁丑公論」を引き合いに出しつつ、出自に対する誇りやアイデンティティに議論が行き着くことはなかった。

『超国家主義の論理と心理』を発表し戦後の思想空間でスター・プレイヤーとなった丸山は、反転した言論の流れに乗るかのように、平和主義の頭目として担がれていく。そこには批判の対象としての(戦前の)天皇の描写と分析はあったが、戦後日本において重責を担う象徴天皇に対する然したるヴィジョンはなかった。単純化していえば、丸山は、一連の独立自尊の哲学に愛国論と帝室論までをも思想の環の中に位置付ける小泉とは異なり、個人主義を基調とした民主国家の形成という戦後の思想空間の中では「行儀のよい」自由主義哲学を福澤に見出した(それ故に一部論者から強烈に批判される)といえるのである。その言論上のポジション(丸山自身がポジショニングしたものではないかもしれないが)から丸山に小泉のような議論を期待することはできなかったであろう。

丸山が福澤研究のスタンダードを作り上げた戦後の思想空間の中では、ニューフェイスが福澤の『帝室論』に行き着くことは難しかったかもしれない。「象徴」という概念が日本国憲法に登場した時点において、小泉は慶應義塾指導者としての経験から福澤の著書に隅々まで精通し、個人主義と自由主義では説明し切れない福澤の国家観にいち早く問題意識を持っており、言論の反転に対してぶれない胆力を持った旧世代の人物だったが故に、福澤の『帝室論』を説いて「象徴」という概念の具体的な解釈提言をなし得たのだといえよう。それは福澤を単なる研究対象として捉えるだけではなく、独立を失った戦後日本にとって福澤の独立自尊の精神が真に求められていることを確信したが故に、「独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催うす」天皇の存在の重要性もまた確信したのだといえよう。

6 終わりに

白洲次郎の著作に日本国憲法の象徴天皇に係る記述がある。占領時代に吉田茂の側近として活躍したことで知られるケンブリッジ大学卒の白洲は、1946年2月当時、GHQ草案の翻訳と日本政府案の作成に当たっていた。

この翻訳遂行中のことはあまり記憶にないが、一つだけある。原文に天皇は国家のシンボルであると書いてあった。……そばにあった英和辞典を引いて、この字引には「象徴」と書いてある、と言ったのが、現在の憲法に「象徴」という字が使ってある所以である。余談になるが、後日学識高き人々がそもそも象徴とは何ぞやと大論戦を展開しておられるたびごとに、私は苦笑を禁じ得なかったことを付け加えておく。(『プリンシプルのない日本』より)

戦後世代の思想空間において、確かに白洲が苦笑する議論の応酬があった。敗戦の前と後とで言論が反転した思想空間においては、不可避の現象だったのかもしれない。しかし、小泉は「象徴」であることに戦後日本の活路を見た。小泉は、白洲が苦笑する大論戦とは一線を画して、福澤『帝室論』から受け継いだ象徴としての実践を説いた。その相手は当時の明仁皇太子であった。

戦後、小泉が説いた象徴天皇の真髄を提供したのはもちろん福澤諭吉であるが、それを戦後の文脈に当てはめ、英国の歴史を意識しつつその実像を具体化させ、見事に紡ぎ直したのは小泉信三の功績である。天皇を「形式」に閉じ込めようという風潮の強かった当時の思想空間の中で、「象徴」をめぐる福澤から小泉への思索のリレーがなされたことは慶應義塾の誇るべき歴史の1つであるといえよう。

国土が荒廃し、人々が悲しみと失望に打ち拉がれた敗戦国日本の再生と復興のためにどうすればよいか。福澤が維新後の日本と日本人に自主自立の危機を見出し、独立自尊の精神を説いたように、小泉は敗戦後の日本に同じ問題を見出した。国が独立を失いかけた福澤の時代とは異なり、敗戦によって日本は独立を失ってしまい、そこからの出発だった。福澤が日本人の精神的支柱としての役割を帝室に見出したように、小泉は日本の再生と復興のための重要な役割を戦後の「象徴」としての天皇に見出した。それは「終戦詔書」にある「任重クシテ道遠キ」務めであったに違いない。「大論争」に苦笑した白洲は、皇太子に象徴天皇を説いた小泉をどのように思っていたのであろうか。

(付記)
本論考を補完するものとして、楠茂樹・楠美佐子『昭和思想史としての小泉信三: 民主と保守の超克』ミネルヴァ書房(2017)及び楠茂樹「小泉信三論のための二つの視点」『近代日本研究』33巻(2018)を参照されたい。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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