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【特集:自由貿易のゆくえ】
座談会:世界は保護主義とどう向き合うのか

2018/08/06

  • 若杉 隆平(わかすぎ りゅうへい)

    新潟県立大学学長・理事長

    1971年東京大学経済学部卒業。88年東京大学経済学博士。横浜国立大学経済学部教授を経て、2004年~07年慶應義塾大学経済学部教授。17年より現職。京都大学名誉教授。専門は国際経済学、産業経済学。

  • 藤山 知彦(ふじやま ともひこ)

    国立研究開発法人科学技術振興機構研究開発戦略センター上席フェロー

    1975年東京大学経済学部卒業。卒業後三菱商事入社。97年同企画部企画室長、02年同中国総代表補佐、08年執行役員国際戦略研究所長等を経る。16年より現職。92年~3年慶應義塾大学非常勤講師を務める。

  • 滝田  洋一(たきた よういち)

    日本経済新聞編集委員

    塾員(昭54法、56法修)。卒業後日本経済新聞社入社。経済部編集委員、論説副委員長、米州総局編集委員等を経て現職。2008年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。テレビ東京ワールドビジネスサテライト キャスター。

  • 深作 喜一郎(ふかさく きいちろう)

    慶應義塾大学経済学部特任教授

    塾員(昭50経、52経修)。1983年英国サセックス大学大学院博士課程修了。GATT事務局経済研究分析部、経済協力開発機構(OECD)開発センター研究科長、同参事官を経る。専門は国際経済学、開発経済学。

  • 清田 耕造(司会)(きよた こうぞう)

    慶應義塾大学産業研究所・大学院経済学研究科教授

    塾員(平8経、13経博)。2001年横浜国立大学経営学部専任講師、同准教授を経て13年より現職。専門は国際経済学。2015年度日経図書文化賞受賞。

歴史に見る自由貿易と保護主義

清田 本日はお集まりいただき、有り難うございます。今日は「自由貿易のゆくえ」をテーマに議論をしていきたいと思います。

トランプ米大統領による政権獲得以降、保護主義的な動きが広がり、世界経済に大きな影響を与えています。先のG7サミットにおいても、米国と他の先進各国間での通商政策について溝が深まり、また米中間においても貿易摩擦が深まっており、目が離せない展開を見せています。長年、肯定的な価値を持って語られてきた「自由貿易」が揺らいでいるように見える今日、歴史的な観点も見ながら、現状とそのゆくえを考えていければと思います。

最初に私のほうから、19世紀から20世紀初頭までの自由貿易と保護主義をめぐる歴史的な潮流をお話ししたいと思います。19世紀から第一次世界大戦勃発までの時期、ちょうどナポレオン戦争終結からベル・エポックの頃までが最初のグローバリゼーションと言われています。グローバル化の要因は2つあり、1つは輸送コストの低下、つまり蒸気船や鉄道が発達したこと。もう1つは自由貿易の進展で、19世紀の後半に自由貿易の理念がイギリスからヨーロッパ大陸へと波及しました。

イギリスでは保護貿易の支柱である穀物法および航海条例の撤廃に動きます。その背景をもって、大幅な関税改革が実施され、750品目におよぶ輸入関税を撤廃し、自由貿易に舵を切りました。その流れがヨーロッパ大陸に広がっていくことになります。

1873年から96年にかけて、英米を中心に不況が起こり、1890年代には自由貿易から保護主義へと戻るような動きがありました。この不況を境にアメリカを含む西欧諸国は自由貿易と保護主義の間を揺れ動く形になります。このような動きは今日にも通じる部分があると思います。すなわち、輸入産品との競争に晒される国内産業が保護を訴える一方、輸出の恩恵を受ける産業は自由貿易を促すという構造です。

さらに20世紀に入ると、1929年にニューヨーク株式市場の大暴落が起こり、各国で失業が拡大します。同じ頃、日本では金解禁が実施され、深刻なデフレに陥ります。世界恐慌を背景に、国際貿易が急速に縮小していきました。

貿易縮小の要因の1つは各国が保護主義に向かっていったことにあります。つまり国内産業の保護のために関税を引き上げていく。覇権国となっていたアメリカでは1930年にスムート・ホーリー法が施行されて、輸入品への関税が記録的に引き上げられます。欧州各国もその動きに追随して、ブロック経済化につながっていきました。

自国製品の競争を回避するため、各国が保護に向かうという傾向は現代にも通じる部分があると思います。ただ、世界恐慌の後、各国の経済は不況に直面しましたが、少なくとも現在のアメリカは景気がよく、失業率も下がっているという点が大きく違います。

ともあれ、各国のブロック経済政策が第二次世界大戦を招いた遠因の1つであるという反省から、大戦末にブレトン・ウッズ協定が結ばれ、通貨の安定とまた自由貿易の振興が図られていきます。さらに戦後になるとGATT(関税及び貿易に関する一般協定)が締結されていくわけですが、このあたりからの戦後の動きについては、深作さん、お願いします。

GATTからWTOへ

深作 私は1983年4月にGATT事務局に奉職し、7年半ほどおりました。GATTを発展的に改組してWTO(世界貿易機関、1995年発足)が設立されたわけですが、GATTというのは国際協定であり、一方、WTOはマラケシュ協定によって法人格が付与された国際機関です。

WTOは、IMFや世銀、あるいは国連とも異なるユニークな組織だ、ということをまず押さえる必要があります。WTOの決定に関しては、その加盟国は「契約上の義務」を負う。他方、他の国際機関は、その加盟国に対しては最大努力を促すだけという違いがあります。

ボブ・ドールという、アメリカの大統領候補にもなった人が「WTOは初めて牙を持った」と言っています。GATTにはそれがなかった。WTOでは紛争処理の時に出すパネルレポートや上級委員会レポートは、ネガティブ・コンセンサスがない限り自動的に採択されてしまう。アメリカが中心になってWTOをつくったのだけれども、後から考えると自分の国益を損なう可能性もあることに気付いた。国際機関というのはあまり強すぎるとアメリカのような国はコントロールできなくなるので嫌なんですね。

WTO交渉について簡単に申し上げますが、最初の95年から2001年のドーハでの閣僚宣言までのおよそ6年間はいろいろ失敗するわけです。ようやく2001年にドーハで閣僚宣言に合意し、ここからいわゆるドーハ・ラウンド、すなわちドーハ開発アジェンダ(DDA)に基づく多国間交渉が始まります。

DDA以前の段階でも、WTOはかなり重要な決定をしています。例えば、情報技術協定に関する閣僚宣言を採択し、情報技術関係の製品の関税をゼロにすることが決まった。その後のドーハ・ラウンド交渉は交渉をやっては失敗し、の繰り返しで、最終的に2011年12月の8回目の閣僚会議で部分合意を認める新たなアプローチへの転換をはかり、9回目と10回目の閣僚会議では重要な成果を出すことができた。

その間の10年ほど、なぜDDAが漂流したかというと、先進国はWTO以外にFTA(自由貿易協定)を締結するなど別のツールを持ってしまった。それから、農業と製造業の交渉に見られるような、先進国対途上国の大バーゲンという考え方が機能しなくなった。さらに、これは重要なことですが、途上国の間で何が自分たちにとって一番いい貿易政策なのかは国によって異なるからです。途上国は一様ではないのです。

最後にこれはあまり言われていないのですが、私が大事だと思うのは、DDAの交渉を終結させる誘因がないことです。ウルグアイ・ラウンド(1986~94)では、交渉を終結させ、WTOをつくるという、強いインセンティブがあった。けれども今回はない。

それから、164の加盟国が交渉を行って一括合意するのは至難の業なので、結局、部分合意になっていった。だから、ラウンドの成果はどうしても低くならざるを得ない。

国際機関としてのWTOは2017年12月の第11回閣僚会議の失敗によって重大な岐路に立っているというのが私の認識で、それについては後でお話しできればと思います。

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