三田評論ONLINE

【特集:変わるメディアとジャーナリズム】
座談会:ニュースの今、そして、これから

2018/06/26

発信者と受け手のリテラシー

山腰 話をもう少し受け手の側に進めていきたいと思います。デジタル化によって、読者や視聴者など受け手のリテラシーはどのように変化してきたとお考えでしょうか。 荻上さんが最近出された『すべての新聞は「偏って」いる』の中で「横のリテラシー」という概念を提示されていておもしろいと思ったのですが。

荻上 90年代までのメディアリテラシー論というのは、市民運動とも結びついて、マスメディアにだまされないようにしよう、国家プロパガンダにだまされないようにしようといったように、市民の側が権力に対してコントロールされないようにしましょう、という発想だったと思います。

でも、人々がいろいろな感情、あるいは間違った情報を共有することによって、例えば関東大震災のときの朝鮮人虐殺のときのように、住民が口コミで広げていくような動きというものも当然あり、これは特にネットでは往々にしてあり得ます。

そうなると、やはり国家に対して気を付けろと身構えているだけだと、ある種の反知性主義に流れることによって別のポピュリズムを生むということが起きるわけです。つまり、今のインテリ、知性の独占状況を疑え、そしてこっちを信じろとウェブに流れる情報が間違っているということは多々あるわけで、功罪があるものです。

そうすると、そうした情報のフローに対して、単に縦のリテラシーだけではなく横側に対してもリテラシーを身に付けなければいけないのではないか。個人だけで自衛できるものではない。つまり友だちを信じるなとか、他分野に対して詳しくなれというのは無理です。例えばニセ科学の問題とか歴史修正主義の問題についてリテラシーを身に付けるには、相当の勉強をしなければいけない。でも人は忙しい。

しかし、有限の時間で語っていく議論の流れの向かった先が誤りだということは当然あり得るので、僕としてはカスケード、つまり議論の方向性を変えたい。人々が行きやすい方向に行くことは避けられないけど、そこにだけは行くなと堰を作ることはできるだろう。デマが流れるのはしょうがないけれど、それはデマだよと言ってそのデマを一つ一つ捨てることはできるのです。僕は応答ジャーナリズムと呼んでいるのですが、デマや誤ったオピニオン形成がされつつあるような状況に対して、いや、こうではないですかという形で横の関係で応答していく。これが「横のリテラシー」です。

最初のニュースを出すのはもちろんマスメディアや報道の人たちの仕事ですが、エディターとか、評論家、パーソナリティーの役割というのは、「皆とどう反応するかを考えようよ」と言うことが重要だと思うのです。

象徴的なのは、裁量労働制についての問題で法政大学の上西充子さんが厚労省のデータの問題点をツイッターで指摘し、複数の専門家の方が確かにそうだと確認をして問題が分かっていきました。あれは今まで官僚に当たって言質を取るというような報道スタイルとは違う、ある種の研究スタイルから見えてくるファクトなわけです。つまり、裁量労働制って非人道的だ、みたいな話をしていたときに、そもそも統計としてどうなのと、違った角度から切り口を持って行くと、議論の流れを変えることができる。

「横のリテラシー」というのは、受け手であると同時に、自分自身も発信者であるようなこの時代に、両面のリテラシーを意識しなくてはいけないということを問題提起しています。

山腰 議論の流れを変えていくような主体というのは、新聞社など組織ジャーナリズムの人たちもその役割を担い得るし、荻上さんのようないわゆる知識人が担う役割でもある。あるいはもっと広く、メディアリテラシー的なノウハウとして、政治文化に定着していくことが大事だと。

荻上 そうですね。メディアというのはムーブメントと結びついてその仲立ちになることもある。「#Me Too」なんかもそうですよね。ツイッター、それから大手メディアも含めてムーブメントが起きて「No」という声を上げやすくなっているのは確かです。例えば今「日経デジタル」で4人に1人が女性だということであれば、経済プラス人権という意識とかが尺度として付加されていくわけです。

大手メディアもSNSで何が起きているかを分析するだけではなく、むしろ積極的にどういったムーブメントのどの位置に自分たちが立っているのかを絶えず検証しながら情報を発信していくという両面が必要になってくると思います。そうすると、どこでも横のリテラシーは必要かと考えています。

フェイクニュースを流すサイトとか、どこでもいいから切り取って、とにかく党派的に誰かを叩くといったものはやはり民主主義に対してどうしても生まれる副産物ですが、それを乗り越えていくことをメディアは常に意識しなければいけないと思います。

ソーシャルメディアの影響力

山腰 出来事の意味づけや解釈の一定のパターンについて、メディア研究では、フレームという言葉をよく使います。ニュースの生産や消費の過程で、ある一定のパターンが生まれてくるわけです。しかし、そこから抜け落ちてくるものがあるので、それを上手く拾い上げていくような役割が、例えばソーシャルメディアにあるのだとすれば、それはフレームを多様化させていくという点で重要な役割です。

一方で、ソーシャルメディアというのは、こちらもこちらでフレームをつくるという部分があって、何かの運動と連動したフレームができて、ソーシャルメディア上ではある種の二項対立をつくったりしているわけです。

そう考えると、今の時代はどうしてもソーシャルメディアの影響力を考えておかなければいけない。津田さんは、ソーシャルメディアの台頭がジャーナリズム、あるいは民主主義に及ぼす影響をどうご覧になっていますか。

津田 ネットでの議論に関して言うと、サイバーカスケードとかフィルターバブルという形で、自分の世界観に合致するような情報を優先的に摂取していく。すると、結果として政治的対話が非常に成り立ちづらくなるという状況があると思います。

例えば今回のモリカケ問題にしても、ツイッターのリアクションを見ていると、びっくりするぐらい違う解釈をしているわけです。その結果お互いに罵詈雑言をぶつけ合うのだけど、全く建設的な対話になっていない。そのように全く異なる世界観が並立し、不信感ばかりが増大していくと、社会の根底にある信頼感みたいなものがなかなか培われてこないのではないか。最初から、朝日はこうだ産経はこうだみたいな形でカテゴライズされているので、ファクトチェックの報道をやっても、ファクトチェック自体が信じられないという状況になりかねません。

ただ、日本はほかの国と比べれば、大手メディアの影響力が非常に強く、マスメディアの信頼度も高いので、そういう意味ではまだましではあるとは思います。今のところ、日本では大多数はわざわざネットで政治的な情報を逐一チェックして政治的な書き込みをするようなことはおそらくありません。先鋭的になっている人は右も左も割合としては多くないでしょう。

しかし、今後、それがどのように動いていくのか。最近、それこそ、現職自衛官幹部が国会議員に暴言を吐くような、以前だとなかなか信じがたいような状況が生まれてきているので、非常に心配な部分はあります。

山腰 その先鋭的なものを許容するというか、受け流してしまう空気が広がるのではないかということですね。

津田 これは僕自身も迷うところで、何となく今は結構やばい状況なのではないかという感覚はあるものの、その一方で、いや、これはたまたま、今そういう事象が立て続けに起きているだけではないかという疑念もあります。いわゆる正常性バイアスかもしれませんが。ネットを見ていてもいろいろな情報が入ってきて、自分の感覚がすぐに相対化されてしまうところがあって、すごく判断をしづらい。だからつい距離を置いてしまうということが個人的な感覚としてちょっとあります。

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