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【特集:変わるメディアとジャーナリズム】
被災地から見たジャーナリズム──データとネットワークの時代に

2018/06/26

  • 中島 みゆき(なかじま みゆき)

    毎日新聞記者、東京大学大学院学際情報学府博士後期課程・塾員

「メディア不信」の時代と言われる。「ポスト真実」「フェイク・ニュース」「マスゴミ」といった言葉が飛び交い、新聞やテレビの報道にも不信の目が向けられている。こうしたなかで一記者として何ができるのか。そんな思いを抱え私は現在、記者として毎日新聞社に在籍しながら大学院で復興のコミュニケーションについて研究している。新聞記者として20年以上働き、2002年以降は学芸部やデジタルメディア局でメディア取材やデジタルの発信に携わってきた。東日本大震災後は、宮城県石巻市大川地区での参与観察を続けながら復興にかかわるさまざまな主体の言動や関係性を時系列とともに記録・分析している。ここではデジタルと被災地、2つの現場での事例を通して、現時点で私が考えるジャーナリズムの課題と希望を記したい。

「メディア不信」の洗礼

2007年元旦、私は管理人を引き受けていたブログの炎上で、旅先から急遽帰京した。ブログはその日始まった新年企画「ネット君臨」取材班のもので、毎日新聞社の読者サイト「まいまいクラブ」内に設置されていた。その日一面に掲載された「難病児のための募金をネット掲示板が妨害した」という内容の記事に対して、昼ごろから否定的なコメントがつき始め、夕方には取材を受けたG氏から「話した内容を恣意的に使われた」というコメントが届いた。

「まいまいクラブ」は、一定の個人情報を登録して会員になれば書き込みができ、コメントは規定(①特定個人を誹謗中傷するもの、②長すぎるもの、③当該記事に関係のないものは不掲載)に沿って承認する仕組みをとっていた。G氏のコメントのほかにも「マスゴミ」「印象操作」といったコメントが押し寄せた。「マスコミ批判が新聞社のサイトに書ける」と驚くものもあったが、管理人としては、規定どおり対応することが読者との信頼を築く出発点ではないかと考えた。

1月24日までに1358件のコメントが書き込まれ、84%にあたる1146件を承認した。取材された当事者が「真意が伝わっていない」と訴えたこと、個人情報を登録した上で「新聞は真実を伝えていないのではないか」「記者は優越的地位にあるのに勉強不足」「ニュース選択や記事の展開が恣意的」と指摘する人が相当数あったことは、新聞社としてしっかり向き合っていくべき課題だと考えた。

データとネットワークの時代

「まいまいクラブ」は全国紙初の双方向サイトとして2005年に設立された。企画時に私がそのようなサイトにしたいと考えた背景には、1990年代の国際キャンペーン「ジュビリー2000」と、2001年の同時多発テロがある。

「ジュビリー2000」は、冷戦構造下で膨らみ実質返済不能となった重債務貧困国の援助債務を20世紀末に帳消しにしようという運動で、1999年のケルンサミットではインターネットで呼びかけ合った数万の人々が160カ国・1720万人による署名とともに議場を囲み、700億ドルの債務削減を実現させた。活動は翌年の九州・沖縄サミットを前に日本でも展開された。国際NGOの担当者が来日し、債務がアフリカ諸国の内発的発展を妨げている現状を、詳細なデータにより説明する資料を配った。経済部で通産省(現・経済産業省)を担当していた私は、霞が関から見るのとは違う世界観があることを知った。国際NGOには高い専門性をもったスタッフが世界各地で働き、現場から発信される情報を集計・分析し国際政治に働きかける仕組みがあると聞き、データとネットワークの時代の到来を直感した。

2001年、同時多発テロ後に音楽家の坂本龍一さんが中心となって出版した『非戦』の編集に参加した。米メディアの圧倒的な報道の中で「そうではない声」を世界中のサイトから探し、集めた。こうした活動を通して、民主主義を担保するには、多様な意見を誰もが発表できる公共空間が必要であり、メディアで働く一人として、その生成と維持にかかわりたいという思いを強く抱いた。多様なネットワークと連携し、当事者発信に耳を傾け、既存取材網がカバーしきれないデータや新たな視点を得ることができればと、2005年に「まいまいクラブ」を、2010年にツイッターと連動した読者参加型日刊紙「毎日RT」を企画し、創刊作業と初期のツイッターアカウント運用を担当した。

震災報道と現地ニーズ

2011年に東日本大震災が起こると、さまざまな言説が飛び交った。事実と異なる発信や「メディアは真実を伝えていない」との批判もあった。新聞は災害の実相を伝えているのか、被災者の役に立てているのか──そんなことを考えながら被災地を歩くと、複数の「事実」が絡み合い「真実」を見分けることが容易でない現実がそこにあった。不完全な情報が疑心暗鬼を招き事態をより複雑にしているケースも見受けられた。自分に何ができるかを考えた時、一つ一つの「事実」と向き合い、長期的に記録し伝えることではないかと考えた。その際独善に陥らないためにはさらに学ぶことが必要ではないかと、大学院に進学した。

研究対象に選んだ石巻市大川地区は石巻市北部、新北上川河口域の9集落で構成される地域で被災前人口は2489人、うち418人が震災で死亡・行方不明となった。河口に近い4集落はほぼ全域が災害危険区域(住めない場所)に指定され、約400世帯が15km内陸の造成地などに移転を余儀なくされた。河口から約4kmの地点にある石巻市立大川小学校では児童・教職員84人の命が失われ、遺族のうち23人が県や市を相手どり訴訟を起こしている。

この地域を私は2004年に連載取材で訪れていた。広葉樹林に囲まれた内水面・長面浦(ながつらうら)の美しさと、自然に根ざして暮らし地域の魅力を伝えようとしている人々の姿に共感を抱いていた。ここで壊滅的な被害を受けた人々が、どのように地域や支援者とのネットワークを培い復興をとげていくのか、プロセスに寄り添いたい思いもあった。

そうした視点から報道を振り返ると、復興の各段階において、生活再建のために十分な情報が提供されたとは言い難かった。2011年の新聞やテレビは、復興の大方針や政局の動きは伝えたものの、現地で求められる情報は、自宅の土地はどうなるのか、災害公営住宅入居と自力再建とどちらが得か、電気・水道はいつ復旧するのか……といった生活レベルに〝翻訳〟されたものだった。2012年以降は、「○○が完成」「○○計画に遅れ」と「復興」のスピードを問題とするような報道が増えた。一方現地では高さ8.4mの防潮堤計画が説明され、漁業や景観への影響を懸念する漁師らは計画変更の方策を探していた。求められていたのは、今後の生活や地域のあり方を考える時間と情報だった。

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