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【特集:防災を考える】
座談会:来るべき地震災害にどう備えるか

2018/03/01

「防災」を文化にするには

大木 廣井さんはどうお考えですか。

廣井 地震防災が、AEDみたいになるにはどうすればいいのかなと考えていたのですが、地震防災、特に巨大災害は不確実性が非常に高く、平均で考えてしまうと災害で死ぬ人は割合からすると少ない。一般的に人間の90何%は疾病で死ぬので、AEDを整備することは社会としてモチベーションが湧くのだと思うんです。

一方で巨大災害は、一発起きたら日本が浮くか沈むかという話なので、政策的に対応する必要はあるのですが、個人の意識に焦点を絞ってみると、巨大災害対策のコストパフォーマンスはよいとは言えません。成人病予防などをしたほうが、はるかに命を長らえる手段と言えるかもしれません。

私は防災ビジネスをいくつかのベンチャー企業とご一緒させていただいたことがあるのですが、なかなか続かない。東日本大震災直後は意識も高かったので、「CSRみたいな形でやろう」となるのですが、企業に相当の体力がない限り、儲かるかといえば微妙です。ビジネスとして続かないのであれば、行政の予算を取ってシステムをつくるしかない。しかも、技術をつくる人はいないので、結局技術が情報工学を専門とする方々から来るのを待つだけなのです。そうすると、例えば防災・減災関連のすごいスマホのアプリができた頃には、もうみんなスマホを使わなくなっているかもしれない。

イノベーションは防災からは起きにくいのではないかと思います。過去の最新の知見のシステムが、10年ぐらい使い方が分からないまま放置されているという現状が散見されているので、AEDのように広げるのはなかなか難しいのかなと感じています。

山崎 災害医療や防災をブームで終わらせるのではなくて、なんとか「文化」に変えたいと思っています。地震が起きると一時的なブームになるけれども、ブームで終わってしまって予算が続かないといったことが起きるんです。

横浜市鶴見区で地域の人を巻き込んだ災害訓練を区の20カ所ぐらいで同時にやって1000人ぐらいに参加してもらっています。いままでライバルはほかの地域の訓練だと考えていたのですが、最近はむしろ盆踊りなどをライバルと考えたほうがいいのかなと。

盆踊りって、必ず町内会で会場がつくられて、もう文化として当然のようにみんな思っているじゃないですか。災害に関しても、地域の住民が万単位で毎年接するようなものに持っていけないかなと思うのです。東北沿岸部で「てんでんこ」という言葉が残っているのはそういう視点だと思うのです。

廣井 私も南海トラフの被災が想定される地域の訓練などを拝見すると、すごく頑張って避難訓練をされている、それは本当に頭が下がるのですが、これは20年続くのかなと思ってしまったりもします。中長期的な視点では、「防災」だけではちょっと継続が難しいと思うのです。「東日本大震災を忘れない」のは非常に重要なことですが、とはいえ辛いことを忘れるのは人間の長所でもあり、30年、50年経って世代が変わると当然忘れる。

そうすると、「忘れない」だけではなく、東日本大震災や熊本地震の教訓を形のあるもの、例えばまちづくりとか、技術とか、法制度というものに埋め込む作業が必要です。防災だけでなく、例えばまちの景観とか、快適性とか、いろいろな指標とセットでうまく埋め込む工夫がおそらく必要なのでしょう。たぶんそれが盆踊りとか、お祭りといったものなのでしょうね。

「いま」がプラスになる防災教育

大木 3・11以前は、自治体の人に防災教育をやらないかと話に伺うと、「われわれはあなたみたいに暇じゃない」と言われたものです(笑)。でも、3・11後は、うちに来てくれ、うちに来てくれで、「全校生徒を揃えたのでどうぞ話してください」と、私が50分話したら、魔法がかかったように全員死ななくなると思い込んでいるような(笑)。そういったブームで終わってしまうところがありますね。

もう7年も経つので、校長が代わっても続いている学校とそうでないところの差は何か、だんだん分かってきました。結局、発災直後の生き死にだけを見ていたら続かないんです。起きるかどうかも分からない地震のために、いまを犠牲にして、いわば入試のための勉強みたいな視点でやっても続かない。社会学で目標志向のものをインストゥルメンタルと言いますが、それでは駄目なんですね。

続いた学校は、担任の先生が、「もうこの際、地震なんかいいです。防災教育が学級運営にすごく役立った」とおっしゃる。つまり、防災をやったことで「いまこの時」にプラスが生じた。いつだか分からない未来に起こりうるマイナスをゼロにするための防災ではなく、「いまこの時」がプラスになることに気づいたところはとても上手くいっている。

ご家庭でもそうなんです。例えば家の家具を留めたときに、「なんでおばあちゃんちは留めないの?」と防災教育を学校で受けてきた子供が言ったので、お母さんは、うちの子がそれだけ思いやりのある子だと気づいて嬉しくなったそうです。このような、「いまこの時」を充足している状態をコンサマトリーと言うのですが、コンサマトリーとインストゥルメンタルが両方満たされたときに継続的ないい防災になっている。それはつまり「防災の」教育から「防災を通しての」教育になったということなんですね。

高知県の土佐清水市の例で言うと、小学生は高齢者を助けに行って自分が被害に遭ってはいけないと言われている。でも高齢者は歩くのが遅いので、このままだと目の前で流されていく高齢者を見ているだけになる。そこで皆で考えて、揺れが終わったら直ちに逃げてくださいというお手紙を、小学生が自分の担当のおじいちゃんに配りに行ったのです。そうすると、お年寄りも訓練に参加してくれる。防災教育がよりよいまちを目指すことや、よりよい自分の像が描けるように位置付けられているところはうまく続いています。

廣井 ビジョンをちゃんとつくってあげる仕事をわれわれはしないといけないということですね。大木さんがおっしゃったように入試と防災はすごく似ている。ただ、大学に受かりたいだけの勉強をやらされている受験生と、その先に学問って面白いとか、いろいろなことを知りたいという将来ビジョンがある受験生は、ずいぶん違うはずです。つまり防災を目的とするのではなく、よいまちに住みたいとか、みんなで仲良く暮らしたいという根底のビジョンを実現する手段と位置付けることも重要です。

山崎 それは医療の場でもすごく感じています。僕は地域連携の担当者でもあって、患者さんを紹介したり、転院させたり、地域の病院との連携をするのですが、普通は病院同士で利害がかち合うのだけれども、防災という切り口では、利害関係がなくなるのですごく入っていきやすい。

災害医療のことで地域の病院を一つ一つ回って一緒にやりましょうと言うと普段の医療連携がよくなる。災害医療を切り口にしてとりあえず顔見知りになれる。そこから災害拠点病院の役割などを伝えることができる。そうすると、拠点病院と拠点でない中小病院との役割分担とか連携ができていく。

大木 防災の連携から地域の連携意識が育つわけですね。

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