【その他】
【講演録】21世紀の"モラル・バックボーン" ──福澤における「自由」「幸福」「蛆虫の本分」
2025/07/11
5.俗界百戯と独立自尊―宇宙/戯れ/蛆虫の本分
さて、繰り返しになりますが、福澤の自由論・幸福論においては、幸福と自由が、そして目的論(功利主義や帰結主義)と義務論(怨望排除論)が、おそらく矛盾なく併存し、それらが自ずと連動するものと、ある意味楽観的に考えられていたフシがあります。特に幸福と自由のそれこそ素敵なマリアージュは、現代ではあまりにも楽観的にすぎるでしょう。
「われに自由を与えよ、然らずんば死を」
これは、18世紀に活躍した革命前夜のアメリカの政治家であるパトリック・ヘンリーの名台詞です。福澤と同じく、自由と幸福の表裏一体性を示唆しています。自由がなく鎖につながれた奴隷状態は「死」に等しい。自由なき世に生きる限り一切の幸福はあり得ない、絶望的状況であるというわけです。《不自由か死か》の二者択一では死を選ぶという状況は、まさに自由が輝ける希望であった時代のハナシです。
では、現代ではどうでしょうか。ここに法学部の同僚である法哲学の大屋雄裕教授の名言があります。
「自由か、さもなくば幸福か」
大屋教授によれば、20世紀は、自由と幸福のマリアージュは破綻し、両者は徐々に距離を置くようになった。つまり、両方を得ることは困難になり、いずれかの選択を迫られるようになったと言うわけです。
確かに、21世紀、情報化とグローバル化は飛躍的に進展しましたが、情報の津波の中での自己決定をし続けることに人々は耐えられなくなり、異なる価値や異なる他者との関係構築に疲れ果ててしまっている。情報が過剰にあふれる社会にあって私たちは膨大な情報収集・分析を強いられ、無数の選択を繰り返さなければならない。選択肢が多ければ幸福になれるわけではないのであります。
新しいアプリやデバイスに慣れるのにも時間がかかり、注意書きや取扱い説明書も理解不能だし、そもそも読まない(読めない)。どうでもいいファイルにもIDとパスコードが要求される(もう開きもしない)。リモートは休日でも海外にいても追いかけて来る。メールやSNSに返事をするのに半日を費やす。フェイスブックで「いいね!」が来ているかどうかを定点観測するので夜は忙しい。睡眠学習しないと周りについていけない……。
自由とは、結局は、「選択の自由」です。そして、選択とは自己決定であります。自己決定の背中には自己責任が張り付いている。決定に伴うコストは、先ほど述べましたように、膨大です。だれもが決定が伴う負担を呪うようになる。つまり、自由を呪うようになる。
これを私なりの雅俗混交体の文体で述べるとしますと、こうなります。現代は、自由と幸福を切り離しただけではない、《自由であると不幸になる時代になった》と。幸福になるには自由を手放し、選択や決定の自由を放棄して、デフォルトを誰かに決めてもらい、自由のコストから解放される必要がある。このような時代です。福澤においては、自由であるためにこそ独立自尊が必要でしたが、それは18世紀、19世紀までのハナシです。21世紀は、独立自尊を守ろうとすると不幸になる時代となってしまった。
では、このように複雑で忙しいカオスの時代にあっては、福澤の求めた智徳の模範、すなわち独立自尊は成立し得ないのでしょうか。独立自尊に代わり得る、現代にマッチした福澤思想のレガシーはどこかにあるのでしょうか。
ここで、冒頭に述べた私の一番推しの福澤作品、『福翁百話』の出番です。これは、福澤の最晩年に書かれたエッセイです。福翁がまさにほんとうにお爺さんになった時に書いたものですから、ある種の透徹した、透明な境地が書かれています。
『福翁百話』冒頭は、「宇宙」と題するエッセイから始まります。広大無辺な宇宙にあって、人間はちっぽけな存在である、人間の一生は一瞬のことにすぎない。その宇宙の神秘、つまり自然法則・物理法則こそ我々の求めるものだと福澤は説き起こします。ある意味で「窮理図解」を称賛していたころの福澤に先祖返りするわけです。
このような広大な宇宙にあって、人間はちっぽけな存在だと言う福澤は、とうとう、人間を生き物のなかでも最もちっぽけな「蛆虫(うじむし)」にたとえ出すのです。人間なんてしょせん「蛆虫」のごときだと。それに加えて、この世は、しょせん「戯(たわむ)れ」であり、遊びに過ぎないと。この福澤のある意味で余計なものをそぎ落とした境地を私はとても好きなのです。
そして、いよいよ本日の講演の核心に入りますが、この「宇宙」「戯れ」「蛆虫」について興味深い文章が『福翁百話』の中に出てきます。それは次のようなものです。
「人生本来戯と知りながら、此一場の戯を戯とせずして恰(あたか)も真面目に勤め、貧苦を去て富楽に志し、同類の邪魔せずして自から安楽を求め、五十七十の寿命も永きものと思うて、父母に仕え夫婦相親しみ子孫の計(はかりごと)をなし、また戸外の公益を謀り、生涯一点の過失なからんことに心掛るこそ蛆蟲(うじむし)の本分なれ。否な、蛆蟲の事に非ず。万物の霊として人間の独り誇る所のものなり。ただ戯と知りつつ戯るれば、心安くして戯の極端に走ることなきのみか、時にあるいは俗界百戯(ぞくかいひゃくぎ)の中に雑居して独り戯れざるもまた可なり。人間の安心法は、およそ此辺にありて大なる過なかるべし」(福澤③31- 32頁)(太字筆者)
この福翁の最終到達点が私の心を打つのです。この世は、そして人生は、しょせん、「戯れ」である。しかし、戯れと知りながら、ウジムシに過ぎない人間はそれを真剣に生きている。一瞬の遊びでしかない人生をどうにかしようともがいている。福澤は、そこにこそ「蛆虫の本分」があると説きます。一寸の虫にも五分の魂、と言うわけです。
では、「蛆虫の本分」とは何か、それが前記引用で私が太字にした箇所に現れています。所詮、戯れだとすれば、極端に走ることはないだろう、そう熱くはならなくて済むだろう、と。が、他方で──ここが福澤のスゴイところだと思うのですが──「時にあるいは俗界百戯の中に雑居して独り戯れざるもまた可なり」とも言うのです。つまり、戯れだからこそ、ひとり戯れからはずれて、孤高を気取ることができると言うのです。
なんという逆説でしょうか。戯れだからこそ、「大真面目」を気取ることができる。要するに、「俗界百戯」の中にあっても「独立自尊」の主体でいられるのだ、と言っているわけです。
人間個人の独立が国家の独立につながると、個人を鼓舞していた福澤が、晩年は、人間をウジムシ呼ばわりする。独立自尊を説きながら、そんなに熱くなるなよ、と言う。しかし、最後の最後のところで、ウジムシでも俗界に交わらず、独立自尊の存在でいられるのだ、と福澤は喝破します。慶應義塾のレガシーの未来を「蛆虫の本分」に託そうとしたわけです。
6.《逆説自在の人》、福澤
福澤は、自由独立の人でありました。同時に、世の中は所詮「戯れ」だと言いました。そして、常に逆説の人でした。国会開設の建白も、それが民権を推すような外見を装いながら、むしろ国権的統制派になり得る逆説的帰結を見ていた、アジアをものすごく意識しながら「脱亞」を説いた、宗教なんかまったく関心のないふりをして最後はある種の宗教に近づいた。若いころは「医者など信頼するな」と言っておきながら、晩年は「医者の言うことを聞かないのはバカだ」と言った。徹頭徹尾、逆説の人であり、様々な思想の間を回遊し戯れた、自在の人でもあった。福澤こそは、《逆説自在の人》でした。
その《逆説自在の人》福澤が最後にやってのけた逆説こそ、本分を果たすウジムシこそが独立自尊の存在たり得る、という逆説でした。21世紀を生きるわれわれは、この「蛆虫の本分」こそを慶應義塾の「智徳の模範」として受け継いでいく必要があるでしょう。
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