【その他】
【講演録】21世紀の"モラル・バックボーン" ──福澤における「自由」「幸福」「蛆虫の本分」
2025/07/11
7.小泉信三の苦悩―モラル・バックボーンを求めて
さて、以上で今日のお話は終わりになります。これからは、「付け足し」のハナシです。しかし、「付け足し」と言 ってあなどってはいけません。講演は、往々にして、付け足し、脱線にこそ本音が隠されており、付け足しの方が時間が長かったりします。私も、本日は、逆説の人、福澤よろしく、付け足しにこそハナシの核心を込めたいと思います。
そこで取り上げるのは、小泉信三です。福澤に並ぶ慶應義塾のキラーコンテンツである小泉を取り上げたいと思います。なぜかと言えば、小泉は、福澤と、ある意味で大きなコントラストをなす人物であると思うからです。
小泉は、ご承知のとおり、戦争の時代、あの暗い時代に塾長でした。そして、本日ウェーランド経済書講述と同じことをやりました。昭和20年、空襲警報の鳴る中、福澤先生の誕生日を祝う会合を三田で開いたのです。その時小泉は、はっきりと、《戦火の中で慶應義塾ここにあり》というところを見せようではないかと、ウェーランド講述を再現するのだと述べて、12名ほどの同志が三田に集まったのです。
そして、福澤が日清戦争を推進したのと同じように、太平洋戦争を小泉は推進しました。義塾の学徒を戦場に送り出し、ある意味必要以上に好戦的姿勢を示したのです。
もちろん、ここでしっかりと付け加えるべきは、小泉は、戦争を始めることにきっぱりと反対する上申を天皇に届けようとしていたのです。しかし、いったん開戦と決まれば、祖国のために国民一丸となってこれを推進するという、極めて律儀な立場を取りました。敢えて好戦的に見せたのはそのためでしょう。もちろん、長男の小泉信吉(しんきち)の戦死も、確実に戦争の大義を称賛する動機を形成していたと思います。
戦争に反対だった小泉が、戦争の大義のため塾生、そして息子を、死地に赴かせたことの慚愧の念は想像を超えるものがあったと思います。多くの塾生が幻の門を出るのを小泉は激励督励して送り出しました。多くが帰らぬ人になりました。幼稚舎の神吉創二教諭はこの時の小泉の心情を次のように書いています。「信三はその責任に名状し難い心苦しさを感じていました。信吉の戦死を『贖罪』と感じたこともあったかもしれません」(神吉133頁)と。私もそのように推測します。
以上のような背景から、小泉は、戦後、次のような「反省」と題する文書を書いております(「サン・ニュース」昭和24(1949)年)。
「終戦以来、この戦争には反対であったと、人は口々に言う。……問題は、その反対であった戦争をなぜ起こさせたかである。……どうして人々の反対する戦争が起こされたか。悪に強きは善にもと、諺に言うが、日本国民殊にその識者と言われるものはいかにも善に弱かった。……伝統的な面目と廉恥の観念と、そうして儒教によって養われた強い義務心とは、彼等日本の士族を道徳的背骨(モラル・バックボーン)のある人間とした。……彼らが大局から見て、兎にも角にも国の大事を誤らなかったに就いては、此事を考えなければなるまい。この背骨をしっかりさせることが、その後の日本において怠られたのではなかったか。……これが日本人の犯した過ちではなかっただろうか。兎にも角にも何物か心に守るところのある国民となること、これが何よりも大切な事ではなかろうか。明治を回顧して私は頻りにそれを思う」(小泉①)
この「反省」という文章が意味することは明らかです。皆が反対していた戦争が行われてしまったのは、明治の士族が持っていた「道徳的背骨」をその後の日本国民が失ってしまったからだと。「何物か心に守るところがある国民」であれば、敢然と立ちあがり、反対しただろうと。そして、重要なのは、この「反省」が、小泉が単に一知識人として日本のあり方を客観的に分析しているだけではなく、おそらくは小泉自身の慚愧の念と繋がっていることにあると思います。
8.《孤忠贖罪の人》、小泉
さて、小泉の「モラル・バックボーン」はどこから来たのでしょうか。
彼の作品のひとつに、『わが文芸談』という書物があります(小泉③)。かつて義塾には、久保田万太郎の寄付により開講されていた「詩学」という講座がありました。これは西脇順三郎、土岐善麿などそうそうたる顔ぶれが、文学論を展開するという科目です。そして、昭和40(1965)年に小泉は、この講座の担当になります。周知のとおり、小泉はものすごい読書家で文学への関心が深く、学部時代に永井荷風の講義にも潜り込んでいます。
話はそれますが、この『わが文芸談』はとても面白い。決定的に面白いのでぜひ読んでみてください。何が素敵かと言いますと、小泉がとても楽しそうなのです。いろいろなことから解放されて、自由に話している。学生の集まりが悪い日は、講義をやめて、学生たちとざっくばらんに文芸談義をしていたりします。
私はこの著作において、一瞬、小泉に福澤が憑依したと思うくらいです。苦悩と求道の人(と私の印象では小泉はそう映ります)が、つかのま自由を得て、一瞬、《逆説自在の人》となったような印象です。
ハナシを戻すと、この講義の中で、小泉はかなりの時間を夏目漱石論に費やします。その中で彼は、夏目はかなりのモラリストであることを指摘し、特にその道徳的なスタンスを愚直なまで貫徹することを称賛しております。漱石が文部省から博士学位の授与を通知されたとき、漱石はそれを強く辞退したのでした。この姿勢を、漱石の英語の先生であるマードックがほめたたえ、その書簡の中で、「君はよくやった。君は自分のモラル・バックボーンを示した」と賛辞を送っています。小泉はこれをとても重視しており、このマードックによるモラル・バックボーンの使用がわが国で最初のものではないかと述べています(小泉③114–115頁)。
おそらくかなり早い時期にこのモラル・バックボーンという言葉が小泉の琴線に触れるものとして心に残ったのでしょう。先ほどの「反省」という文章にもそれが出てきますし、ヴァイニング夫人にもそれを語ります。また、岩波書店から出版された『福澤諭吉』の最終章のサブ・タイトルは「福澤の道徳的支柱」で、福澤自身のモラル・バックボーンがどこにあったかを探究しているのです(小泉②165頁)。
こうして、明治期にはあり得たが、戦中戦後失われてしまったモラル・バックボーン、そして戦争に抵抗しきれなかった小泉自身が持ち得ていなかったモラル・バックボーンの探究が始まります。それは、ある種の《贖罪の一環》として、自身に背負わせた十字架のように私には思えてくるのです。
では、小泉はどのようなモラル・バックボーンを獲得するに至ったのでしょうか? この点、優等生的回答は、キリスト教だと答えるでしょう。小泉は64歳のときに洗礼を受け、聖公会に属します。これは、小泉が信吉に続いて、初孫であるエリを病死で失ったことがきっかけとなったと言われておりますので、相当な召命を感じてのことでしょう。しかし、やや強引かもしれませんが、私は、小泉は生涯、結局、モラル・バックボーンを見つけることができなかったのではないかと思います。初孫の死をきっかけにしたという劇的な契機が確かにありましたが、小泉自身は、洗礼を受けるにあたり、友人に送った書簡で、大要、自分のキリスト教理解は皮相的・断片的なものでもっとよく研究してから洗礼を受けようと思ったが、むしろ洗礼を受けてからしっかり研究しよう、「クリスチャンというものを未だよく知らない、これから知ろう」というのですと述べています(小川原180頁)。
しかし、没する78歳までの14年間、小泉はしっかりとクリスチャンであることの意味を研究し、自己のモラル・バックボーンとしてそれをしっかり確立したかもしれません。また、そうではないかもしれません。このあたりの消息は今後しっかりと勉強していきたいと思います。
ただ、彼にとってモラル・バックボーンになり得たものはたくさんあったわけです。明治のころの士族の精神、慶應義塾ないし福澤諭吉ないし独立自尊、皇室、そしてキリスト教。が、それらについて明確な決別があったわけではない。最後はキリスト教にたどり着いたのかもしれませんが、戦争期の塾長としてのある種の慚愧の念から、モラル・バックボーンを求める求道の旅を、《贖罪の一環》として自分に課し続けた後半生ではなかったか。バックボーンを形成する以前に、拠るべきモラルの選択について慎重だったのではないか、そう思うのです。
もう一点、小泉について申し上げておきたいことがあります。小泉の著作に散見できるのは、「孤独」への関心です。例えば、「大事なもの」と聞かれれば「孤独の時間」と答え、時に誰にも告げず、都内のホテルに閉じこもり、独りきりになることを至福の時間であったと書いております(山内他①31頁以降)。また、夜空の星を見上げるのが好きであると述べるエッセイでは、「孤独を欲するものは星をみよ」とエマソンを引用して述べています(山内他①70頁)。さらに、明治期の人物たちの持っていた「孤忠の精神」にとても感情移入しています(山内他②118頁)。
しかも、小泉はあるエッセイの中で、嫌いなもののひとつとして「演説」をあげるのです。気持ちよく喋れたことは一度もない、と(山内他①67頁)。
もうおわかりでしょう。小泉は福澤と対照的であるということです。人間交際の福澤に対して、孤独好きの小泉。演説の人(演説館までつくった人)、福澤に対して、演説嫌いの小泉。戯れの人、福澤に対して、求道・実直・苦悩の人、小泉。
小泉を一言で表現することが許されるのであれば、《孤忠贖罪の人》と言えるでしょう。もちろん、この呼称については、小泉を、福澤との対比を際立たせるために、私がある意味強引に整理しているところがあります。法学者は白黒つけるのが仕事ですから、どうかこの点、お許しください。
私は、《孤忠贖罪の人》と小泉を呼ぶことで、神格化された小泉像を破壊しようというのでは、まったくありません。むしろ、《孤忠贖罪の人》であるからこそ小泉を高く評価したいと考えます。そして、それは福澤精神で染め上げられた慶應義塾の「もうひとつの相貌」であると申し上げたいと思います。この側面の継承も慶應義塾は忘れてはならないのではないでしょうか。
そして、福澤の言う《蛆虫の本分》のうち、「俗界百戯の中に雑居して独り戯れざる」、そのような精神の一つの在り方を愚直に示した人物こそが、小泉だったのではないか、そう整理したいのです。
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