【その他】
【講演録】21世紀の"モラル・バックボーン" ──福澤における「自由」「幸福」「蛆虫の本分」
2025/07/11
9.おわりに―21世紀のモラル・バックボーン
小泉は、バックボーンによって支えるべきモラルそのものを見つけ出すことができなかった、見つけ出すことに慎重であったと思われます。武士道、慶應義塾・福澤精神、皇室、キリスト教、どれも通り過ぎていったのかもしれません。もっとも、どれかひとつを選択することはあまり重要ではない。特定の「モラル」の選択の是非ではなく、いずれにしても、それを「バックボーン」にすることの大切さを、小泉は語っていたのではないかと思われます。小泉が模索したのは、「何物か心に守るところ」を持ち、そして、それを自分の心の中で大切にするだけではなく、いざというときにそれを背骨としてしっかりと立てて、屹立した意志をもって、発言し、抗う、そういう姿勢を求めたのではないでしょうか。
その意味では、小泉の名言、「善を行うに勇なれ」は、極めて示唆的であります。福澤で言えば、「気品の泉源、智徳の模範」を「口に言ふのみにあらす躬行実践以て全社会の先導者たらんことを欲する」につながります。ほんとうの危機に際して、「蛆虫の本分」を発揮できることこそが、21世紀のモラル・バックボーンとして私たちが受け継ぐことです。
そして、まさに今日の政治状況が私たちのそれを試しています。小泉はかつて戦争に突入していったとき、なぜ自分たちはモラル・バックボーンを発揮できなかったのかと自己を問い詰めました。私たちも、やや気軽に、当時の知識人や言論機関、市民や政治指導者がなぜ敢然と異を唱えることができなかったのか、と非難することがあります。が、昨今の不安定化する安全保障、浸潤する言論弾圧、炎上商法化する政治的言論空間にあって、このことは、まさに今の私たちが問われていることなのです。
福澤は『学問のすゝめ』第4編において、慶應義塾が「私立」であることにこだわりました。アメリカを中心に、大 学の自治、学問の自由が危機に瀕しているとき、私たち大学人が本来有しているはずのモラル・バックボーンを示し、死守することができるかどうかが問われています。
さて、最後に《私自身の課題》についてひとこと申し上げて終えたいと思います。
冒頭に触れました「文体」の問題です。「気品に欠けるのでは……」との指摘を受けた私の雅俗混交体ですが、これについての弁明です。義塾の目指す「気品」とは謹厳実直な堅苦しいものではない。福澤によれば所詮人生は「戯れ」でしかない。おそらく、気品とはふさわしいときにふさわしい場所で、謹厳実直の緊張をやぶり、「戯れ」をそれとなく発揮しても野卑にならないスタイルのことではないか。揶揄翻弄のワザを使っても、自身の位格を下げることのない気風のことでしょう。「気品に欠けるのでは……」ではなく、願わくば、「コマムラさんの文章には戯れがあるね」と言ってほしかった。まだまだ修行が足りないということでしょう。
以上の「雅俗混交体」あるいは「揶揄翻弄の特技」に付会して、21世紀に果たすべき役割を、義塾の末席を汚す、法学者・駒村圭吾自身の課題に置き換えれば、要するに、《逆説自在の人》福澤の使った雅俗混交体、揶揄翻弄の技法をもって、《孤忠贖罪の人》小泉の苦悩を書く、ということになるでしょう。《福澤の文体で小泉の苦悩を書く》、それが私自身にとっての課題であり、結論となります。ご清聴ありがとうございました。
(引用参照文献)
福澤①:福澤諭吉『学問のすゝめ』(1942年、岩波文庫)
福澤②:福澤諭吉(マリオン・ソシエ、西川俊作編)『福澤諭吉著作集第一巻 西洋事情』(2002年、慶應義塾大学出版会)
福澤③:福澤諭吉「福翁百話」富田正文編集代表『福澤諭吉選集11』(1981年、岩波書店)
福澤④:福澤諭吉「福翁百余話」富田正文編集代表『福澤諭吉選集11』(1981年、岩波書店)
丸山:丸山眞男(松沢弘陽編)『福澤諭吉の哲学』(2001年、岩波文庫)
小泉①:小泉信三「反省」サン・ニュース(1949年1月5日)
小泉②:小泉信三『福澤諭吉』(1966年、岩波新書)
小泉③:小泉信三『わが文芸談』(1994年、講談社文芸文庫)
神吉:神吉創二『伝記 小泉信三』(2014年、慶應義塾大学出版会)
安西:安西敏三『福澤諭吉の思想的源泉』(2025年、慶應義塾大学出版会)
小川原:小川原正道『小泉信三』(2018年、中公新書)
山内他①:山内慶太他編『小泉信三エッセイ選1 善を行うに勇なれ』(2016年、慶應義塾大学出版会)
山内他②:山内慶太他編『小泉信三エッセイ選2 私と福澤諭吉』(2017年、慶應義塾大学出版会)
(本稿は、2025年1月10日に行われた第190回福澤先生誕生記念会での記念講演をもとに構成したものです。)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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