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【講演録】21世紀の"モラル・バックボーン" ──福澤における「自由」「幸福」「蛆虫の本分」

2025/07/11

  • 駒村 圭吾(こまむら けいご)

    慶應義塾大学法学部教授

1.はじめに―「文体」の問題

もうずいぶん昔の話になりますが、慶應に戻ってきて法学部の助教授に着任したころ、学会仲間のある方から声をかけられ、「最近の駒村さんの文体は……」と切り出されました。私より若い方でした。一体なんて言われるんだろうと期待してきくと、「最近の駒村さんの文体は、東大法学部の某教授の文体に似てきているようで残念だ」と。私、てっきり、福澤諭吉の文体に似てきましたね、と言われるかと期待してワクワクしていたのですが……。少しだけ残念でしたが(笑)、ただ、この指摘をくださった方も、東大の某教授に似てきたのを「残念だ」と評価されており、駒村本来の文体に戻ってほしいという含意があります。

本題に入る前に、「文体」についてもう少しお話しさせてください。

私が慶應義塾大学法学部の学生だったのは1980年代で、今から40年以上前になります。福澤諭吉については、高校の教科書レベル以上はなにも知りませんでした。ただ、学部3年生の時に、土橋俊一先生の『慶應義塾の歴史の軌跡』というような科目があり、「単位が取りやすい」といううわさだけを頼りに履修し──実際、単位は取りやすかったのですが──、出席しました。履修したと言っても、ただ聞き流す程度で、真剣に取り組むことはありませんでした。でも、門前の小僧習わぬなんとやら、ではありませんが、耳学問でも何かがインプリントされたのでしょう、土橋先生の語る変わった名前や言葉(ひゃくすけ、ももすけ、サイエンスではなくサイヤンス、ニンゲン交際ではなくジンカン交際等々)はなぜか心に残りました。もうひとつ教わったのは、『福翁自伝』が『学問のすゝめ』よりもオモシロそうだということです。そういう次第でして、私の福澤読書歴は、『福翁自伝』、もっと言えば、『福翁百話』に始まりました。正直申し上げて、『学問のすゝめ』を読むのはもっと後ですし、『文明論之概略』に至っては、丸山眞男が書いた新書の手ほどきを経て、慌てて手にするという具合でした。

そんな次第で、学部生から院生にかけての私の文体は、血気盛んな啓蒙思想家・福澤のそれではなく、若きころの福澤そして円熟の福澤も実に楽しみつつ用いた「雅俗混交体」の影響を受けています。ご案内のように「雅俗混交体」とは、文語文的表現の中に突然日常的な俗語が組み込まれる文体のことです。私は研究論文も含め文章を書くとき、その影響が文体に出ていまして、「素晴らしい」と書けばいいところを「スバラシイ」とカタカナで書いたり、奇怪を「キッカイ」と書いたり、さらに「(丸い括弧)」を突然用いて、そこに本音をちょっとだけ挿入したりするのが好みでした。例えば「知る人ぞ知る」と書いて済ませればいいところ、すぐにカッコをして「知る人ぞ知る(でも知らない人も多い)」と書きこんだりしておりました。これは、何もふざけてそうしているわけではなく、緊張した硬質な文章の中に突然、柔らかな(これも書くとすればカタカナで「ヤワラカな」と書きたいところですが)、語句にささやかな揶揄を込めることにより、文脈の深刻さを際立たせる、あるいは、カタカナで書くほか表現のしようがない別の含意を際立たせる、そういうつもりで使っております。私は、福澤の「雅俗混交体」の文体も、かかる揶揄を込めた技法、この点、小泉信三の表現を借用すればまさに「揶揄翻弄の特技」(福澤①223頁〔小泉による解題〕)とも言い換えることのできるひとつのワザとして、福澤は好んで用いたものと勝手に解釈し、自分と共振するものを、これも勝手に感じてまいりました。

これはけっこう奏功しておりまして、学外の公法学者や弁護士からは好評を博しており、と言いますか、そういうところだけ読んで楽しんでいる方もいるのですが、概してご理解を得ているところです。他方で、かつて、かなり初期のころ、西日本方面にお住まいのさる大家から「コマムラくん、こういう表現は気品に欠けるのではないか」とお叱りを受けたこともあります。「気品」と言われてしまいますと、慶應の人間としては「当方こそ本家本元である」と言いたくなるのですが、そこはグッとおさえ、当時は"御意に感謝"と応答しました。が、いつかこの点について若干の言い訳あるいは釈明をしたいと思っておりまして、本日いよいよそれを果たせるのではないか、と考えております。数10年を経ての弁明が、本日の講演のもうひとつのねらいであります。

というわけで、本日は、「21世紀のモラル・バックボーン」というタイトルで、福澤の自由論・幸福論、そして、それを受け継ぐ「小泉信三」の思想についてお話しします。モラル・バックボーンですので、「気品の泉源、智徳の模範」で言えば、後者の「智徳」に関する話題ですが、駒村流「雅俗混交体」に対する弁明も含みますので、「気品」の問題にも言及することになります。

2.『学問のすゝめ』初編における福澤の基本思想

福澤は、その代表作『学問のすゝめ』の劈頭で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」と述べました。この第一声があまりにも有名であるため、平等主義者であるかのように言われますが、ご案内のように、《学のあるなし》ではっきりと人間の上下を判別します。その意味では、単純な平等主義者ではありません。これから見るように、福澤にとって、平等は自由をことあげするための前提にすぎません。むしろ、この自然創造の「平等」は、福澤の「自由論」と結びつけて理解すべきです。福澤は先の第一声に続けて次のように言います。

「されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、(中略)もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして各々安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり」(福澤①11頁〔初編〕)

本来自然創造において人は平等であり、したがって自由自在の存在である、そうであるべきだという前提がまず描かれます。しかし、これに対して直ちに福澤は注釈を付けます。

すなわち、「人の天然生れ附(つき)は、繋がれず縛られず、(中略)自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我儘放蕩(わがままほうとう)に陥ること多し」と言って、福澤は「分限を知る」ことが肝要であると説きます。その「分限」は、身分をわきまえろというような封建的秩序の内面化ではありません。福澤はこう言います。「即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり。自由と我儘との界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり」と(福澤①14頁〔初編〕)。

この「分限」を知る営みこそが「学問」であると喝破するのが、『すゝめ』初編の大要であり、したがって、それは平等論というよりも、自由論の宣言なのです。

このような自由論に立ち、福澤は『すゝめ』初編において2つの重要な帰結を示唆しています。

第一に、上述のような意味での「分限」をわきまえない「無知文盲」を福澤は蛇蝎のごとく扱います。「凡そ世の中に無知文盲の民ほど憐れむべくまた悪(にく)むべきものはあらず」と明言し、自分の無知ゆえに貧窮に陥ったにもかかわらず、人をうらやみ、しかも……

「甚だしきは徒党を結び強訴一揆などとて乱妨に及ぶことあり。恥を知らざるとや言わん。法を恐れずとや言わん」(福澤①17–18頁〔初編〕)

……と、このように容赦ありません。

強訴一揆に対するかかる警戒の念は福澤においては深く、『すゝめ』第2編では、「かかる馬鹿者を取扱うには、迚(とて)も道理をもってすべからず、不本意ながら力をもって威(おど)し、一時の大害を鎮むるより外に方便あることなし」と割り切っています(福澤①29頁〔第2編〕)。

第二に、福澤は、自由独立は個人のみならず国にも妥当するという思考様式を採用します。「自由独立の事は、人の一身に在るのみならず一国の上にもあることなり」というのがそれです(福澤①14頁〔初編〕)。ですので、国を凌辱しようとするものがあれば「日本国中の人民1人も残らず命を棄てて国の威光を落とさざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり」と断言します(福澤①15頁〔初編〕)。そして……、

「人の一身も一国も、天の道理に基づきて不羈自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚るに足らず」(福澤①17頁〔初編〕)。

……と自由の敵にはしっかりと対峙することを説いております。

しばしば、福澤の言論や思想を、民権論/国権論のいずれかに裁断しようとする主張に触れることがあります。一例をあげますと、明治14(1881)年に公刊された『時事小言』において福澤は国権論に傾くことを明言しました。その後、強訴一揆が民権運動と接続することを警戒し、その抑制を説き、そして、脱亜論につながり、ご承知のように日清戦争を鼓吹する言論につながります。これをもって近代啓蒙思想と決別したと解する見方があります。しかし、さきほど見ましたように、『学問のすゝめ』初編が公刊された明治5(1872)年の時点で──つまり、福澤をして近代啓蒙思想家の代表格と位置づけたあの初編の時点ですでに──彼の「自由論」の反射ないし帰結として、強訴一揆に対する統制派的視点や、一身の独立と一国の独立を同視し、決然と敵に対峙すべきことが説かれていました。したがって、農民の無軌道な行動に政府がこれを鎮圧すべきことを説き、近隣の大国が近代化を阻み、国力を膨張させていることを日本の自由独立を阻むものとみて、国権論を展開するのは、『学問のすゝめ』で展開した近代啓蒙を曲げたのではなく、まさに正しくそれを時局に適用したまでの事と言えるでしょう。少なくとも福澤の哲学世界の中では一貫していたと言えます。

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