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【特集:ソーシャルメディアと社会】
津田 正太郎:ソーシャルメディアという「怖い場所」

2025/10/06

怖さの押し売りとモラルパニック

他方で、優雅な生活のアピールとは対極にある憎悪の扇動も、ソーシャルメディアを怖い場所にしている。Xの定番とも言えるのが、女性全般、もしくは男性全般に対する憎悪の扇動だ。トランスジェンダー、とりわけトランス女性を性犯罪者扱いする投稿も目立つ。とりわけ近年において顕著なのが、外国人による犯罪の危険性を煽る投稿だ。言うまでもなく、これはソーシャルメディア内においてのみ観察される現象ではない。2025年の参議院選挙において「外国人」が争点になったのは記憶に新しい。

この現象についても社会学的な概念を用いて論じるなら、「モラルパニック」ということになるだろう。モラルパニックとは、特定の集団(事例により変わる)のせいで社会のモラルが崩壊しそうだとの危機感によって発生するパニック的状況のことを指す。パニックがおおむねメディア内だけに留まることもあれば、街頭での直接行動や政策変更にまで発展することもある。

モラルパニックの特徴は、統計的なデータに反する主張や裏づけの乏しい陰謀論に基づき、メディアや政治家などによって危機が喧伝される点にある。日本におけるモラルパニックの事例としては、20世紀末から21世紀初頭にかけてさかんに報じられた「少年犯罪の急増・凶悪化」が挙げられる。統計的にそうした傾向は全く確認できないにもかかわらず、いくつかのセンセーショナルな事件が契機となり、「人の命の重さ」を理解しない世代が新たに出現したかの如き言論が展開された。

近年の外国人犯罪に関する言論についても同様の指摘ができる。本稿の趣旨からは外れるため詳細には踏み込めないが、統計的には外国人の流入による治安の悪化は確認できない。犯罪自体が全体的に減少してきたとはいえ、現在の日本における犯罪の圧倒的多数は日本人によるものだ。にもかかわらず、報道やソーシャルメディアで外国人による犯罪が大きく取り上げられることも手伝い、その比率が過大に見積もられてしまう傾向にある。

それに拍車をかけていると思われるのが、近年における外国人観光客の急増だ。外国人と思しき(ただし、本当に外国人かどうかは分からない)人物によるマナー違反の告発は、もはやXの定番コンテンツとなっている。それが「外国人による犯罪」を語る言説に一定のリアリティを与えていると考えられる。

別の角度から言えば、「人びとに不安を与える」のは、商品マーケティングの基本的なテクニックである。「あなたの口臭は周囲の人に嫌がられているのではないか」、「あなたの英語はネイティブを不快にさせているのではないか」といった不安を煽ることで注意を引き、商品の購入を勧める手法である。ソーシャルメディア上で生じる熾烈なアテンション獲得競争を踏まえるなら、意図的に不安を煽ることでモラルパニックを引き起こし、自身の注目度を上げようとする投稿者が出てくるのは必然とも言える。表面的には「犯罪」の発生を嘆き、その防止を訴えていたとしても、それをもっとも必要としているのは投稿者自身なのである。

もちろん、モラルパニック概念が用いられ始めたのが、1970年代初頭の英国であり、そのパニックの重要な発生源とされたのがマスメディアであったことを踏まえるなら、こうした現象は決して新しいわけでも、ソーシャルメディアに特有だというわけでもない。違いがあるとすれば、人びとを意図的に欺こうとする者も含め、これまで以上に多くの人びとがモラルパニックの出現に加担することで、頻度が上がるとともに、抑制の効きづらい状況を生み出しつつある点が挙げられよう。

また、かつてのモラルパニックは、反論するのが難しい立場の人びとがターゲットとされることが多かった。若者や外国人がその典型である。現在でも同様の傾向はみられるものの、エリートとみなされる集団にまつわるパニックも目立つようになっている。中央官庁や国際機関が意図的に社会を危機に陥れているとする陰謀論的なモラルパニックである。これも完全に新しい現象だとは言い難いが、ソーシャルメディア上で顕在化しているポピュリズム的な動きは、既存の社会制度に対する不信感を苗床とするため、こうしたタイプのモラルパニックと非常に親和的である。

まとめるなら、ソーシャルメディアは嫌がらせや誹謗中傷が横行する一方、それを眺めているだけで他者との比較によって不幸が増してしまいかねない怖い場所である。のみならず、怖さを押し売りし、それを自らの求心力へと転換しようとする者が闊歩する場所でもあるのだ。

「人類にソーシャルメディアは早すぎた」のか

それでは、以上の状況を踏まえたうえで、われわれはいかにソーシャルメディアと付き合うべきなのか。本稿を執筆するにあたって改めて検討してみたが、結局、何も思いつかなかった。本稿では触れていない様々な問題も含めて考えていると、「人類にソーシャルメディアは早すぎた」と言いたくなってしまうのが正直なところだ。とりわけ、ソーシャルメディアに起因する社会レベルでの問題について、有効な解決策など到底思いつかない。

しかし、そうは言っても、ソーシャルメディアの存在しない過去へと戻ることはできない。本稿ではあえてネガティブな側面ばかりを論じてきたが、ポジティブな側面もまた数多く存在するからだ。しかも歴史的には、新たなメディアのせいで社会がダメになるとの主張は繰り返し展開されてきた。眼前の事象に引きずられて筆者が過度に悲観的になっている可能性もある。一つ言えるのは、アルゴリズムの改良や法規制によって部分的に改善することはあっても、社会全体と同じで「こうすれば万事うまくいく」解決策は存在しないということだ。本稿で取り上げた諸問題や、それ以外の問題も踏まえたうえで、一人ひとりが上手な付き合い方をみつけていくしかないだろう。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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