【特集:がんと社会】
井深 陽子:高額療養費制度をめぐる医療経済学的考察
2025/07/07
日本のがん治療を経済的に支える重要な仕組みとして、「高額療養費制度」がある。2024年から2025年にかけて同制度の改正案が提示され、審議が進められたものの、最終的に原案の実施は凍結された。本稿では、政策形成に欠かせない影響の試算について、科学的知見に照らした妥当性と限界を整理し考察する。
1.高額療養費制度とは
1961年の国民皆保険制度の創設以来、日本では国内の全居住者が公的医療保険で医療を受ける権利を保障されている。ただし、就学前児童と一部高齢者を除き、自己負担は原則3割であり、高度な医療には家計への大きな負担が残る。これを緩和する仕組みが「高額療養費制度」だ。同一月の自己負担が、所得に応じた「自己負担限度額」を超えた場合、その超過分を公的保険が補填し、多額の出費を防ぐセーフティネットとなっている。
2025年6月現在、現役世代に適用される自己負担限度額は年収に応じて5段階に区分される。最高所得層(年収約1,160万円超)は月額25万2,600円、以下、770万〜1,160万円層で16万7,400円、370万〜770万円層で8万100円、370万円未満層で5万7,600円、住民税非課税世帯で3万5,400円と逓減し、所得水準に応じた負担調整が図られている。
さらに、長期療養に伴う継続的負担を考慮し、直近12カ月で3回以上限度額に達した場合、4回目以降の限度額を引き下げる「多数回該当」が適用される。これにより、最高所得層でも月額14万100円、住民税非課税世帯では2万4,600円まで自己負担が軽減される。近年、極めて高価ながら高い有効性を有するがん治療薬が相次いで登場し、また治療期間も長期化する傾向にある。高額療養費制度は、こうした高度な医療へのアクセスを所得によらず確保し、患者とその家計を守るために不可欠の制度的基盤となっている。
2.2025年の改正案とその後の経緯
2024年11月、社会保障審議会医療保険部会(厚生労働大臣の諮問機関)において、高額療養費制度の自己負担限度額の引き上げに関する本格的な検討が開始された。同部会は「セーフティネットとしての機能を維持しつつ、すべての世代の被保険者負担を軽減する」ことを改革の目的に掲げている*1。本改革の柱は、①自己負担限度額の段階的引き上げ、②所得区分の細分化(従来の5区分を13区分へ拡充)の2点である。
まず前者については、家計への急激な影響を緩和する観点から、引き上げは2025年度を初年度とする3年間にわたる逓増方式が提案された。特に新設された最高所得層(年収約1,650万円以上)では、現行の月額25万2,600円が、初年度29万400円、次年度36万7,200円、3年目には44万4,330円へと、およそ20万円規模の大幅な増額が予定されていた。他方、所得区分をよりきめ細かくすることで、低所得層には過度な負担が及ばないよう配慮しつつ、支払い能力に応じた自己負担を徹底する意図が示された。
しかし、2025年に入り国会審議の過程で、患者団体や関連学会から治療継続の阻害への懸念をもとに強い反対意見が相次いだ。こうした声を受け、政府は同年8月に予定していた自己負担限度額の引き上げを凍結する方針を発表した。
3.政策改正の影響の試算
今回の凍結をめぐる議論では、審議過程における当事者参画の不足など、政策決定プロセスそのものが抱える課題が指摘されてきた。本稿では視点を変え、政策の検討に際して重要となる制度改正の影響の試算に関する課題に目を向けたい。
今回提案された自己負担限度額の引き上げは、被保険者負担の軽減、すなわち保険料の抑制を主要目的として掲げる。医療技術の進歩などにより医療費総額が年々増加する現状を前提とすれば、本改革は給付額の縮減──換言すれば総医療費の抑制──を図る試みと位置づけられる。実際に、前述の厚生労働省の資料では、高額療養費の制度改正による医療保険の財政的な減少幅、およびそれによる加入者1人当たりの保険料の減少幅の試算がされている。一方、自己負担限度額の引き上げは、対象者に負担という「痛み」を強いる施策である。その痛みに見合うかたちで保険制度の目的を達成できるかどうかを、適切に評価することが、制度改正の議論の出発点として重要である。
自己負担限度額の引き上げは、潜在的には2つの理由で医療保険財政の改善につながる。第一に、受療の費用負担を患者個人に転嫁することで生じる保険支出の減少である。自己負担の変化幅が最も大きい最高所得層を例にとると、現行の月額上限25万2,600円が改正初年度には29万400円へ引き上げられ、差額3万7,800円が保険支出から患者負担へ移行する。これは医療費の負担主体が保険者から患者に替わることで発生する支出減であり、試算は単純な算術で求められる。第二に、自己負担の増加によって受診行動が抑制され、その結果として医療費自体が減少する経路である。この第二の経路については、自己負担の変化に対する人の行動の変化の程度に依存するため、その試算は不確実性をはらむ。厚生労働省の試算においては、この自己負担増による医療費の減少効果を「長瀬効果」と呼び、今回の試算にも含まれていると記載されている*2。
医療経済学分野では、この第二の経路について研究が進められてきた*3。自己負担の水準が医療利用を左右するか否かは、医療保険制度設計の核心であり、半世紀にわたり実証研究が積み重ねられている。結論から言えば、自己負担が上がれば医療利用は減少する──この関係は国や制度を超えて観測されている。
象徴的な先行研究が、1970年代米国ランド研究所による RAND Health Insurance Experiment (RAND実験)である。同実験では、自己負担率を0%(完全無料)から最大95%まで4段階に無作為に割り当て、外来・入院を含む医療利用の変化を追跡した。その結果、自己負担率が高まるにつれ、外来受診回数だけでなく入院確率や総医療費も減少した。とりわけ自己負担が10%上昇すると医療利用が約2%減少するという結果(専門用語では医療需要の価格弾力性が-0.2であると言う)は、現在でも基準値としてしばしば引用される。
同様の規模の効果は、日本でも観察されている。代表的なものとして、70歳到達時の自己負担率引き下げ(当時30%→10%)を利用した準実験研究である*4。ここでも、価格弾力性に換算すればRAND実験と同水準となった。米国と日本は医療提供体制も医療費支払いの仕組みも大きく異なるが、「10%の自己負担増が2%前後の医療利用減をもたらす」という帰結はほぼ重なっている。
厚生労働省が今回の試算に用いた長瀬効果の推計式は前述の資料には明記されていないものの、公開されている別資料を用いて筆者らが以前に行った試算では、これら先行研究で示された価格弾力性と長瀬効果はおおむね同程度の大きさであることが確認できた*5。とはいえ、この弾力性(すなわち長瀬効果)をそのまま高額療養費の自己負担限度額の引き上げの効果推計に適用することは妥当なのだろうか。仮に適用できると仮定すると、上限が25万2,600円から初年度29万400円へ約15%引き上げられれば、既存研究の推定値を用いておおむね3%程度の医療利用減が見込まれる計算となる。しかし、日常的に発生するような少額診療に対する定率負担の変化と、高額治療費に対する月額上限の引き上げとでは、同じ「自己負担増」であっても性質が大きく異なる。高額治療は必要性により生まれ、代替手段も限られるため、自己負担に対する反応が小さい可能性がある。この場合には、既存研究の推定値を用いた保険財政の改善効果の試算は上振れすることになる。実際に、高額医療の負担上限変更が医療利用にどの程度影響するかについては、国内外ともに実証研究が乏しく、この部分の定量的な把握は未だ途上にある。
さらに留意すべき点は、この財政影響の評価における医療利用減が「健康への影響はない」と暗黙に仮定していると考えられることである。しかし、高額医療費の負担上限を変更する際に最も注視すべき指標は、まさにその健康への影響である。一般集団を対象としたRAND実験や日本の先行研究では、自己負担率の引き下げによる平均的な健康改善は小さいと報告されているものの、高額療養費の適用は重篤な疾病の治療が対象となる。RAND実験では、健康状態の悪い層に限れば自己負担減による健康改善が確認されており、この点も見逃せない。高額医療に係る上限額が引き上げられ、実際に受療行動が抑制された場合、治療機会の逸失が深刻な健康被害へと結び付く可能性が十分にある。財政効果の推計と並行して、健康アウトカムへの影響を慎重に評価することが制度設計の前提となる。
このような科学的知見と政策の決定を結び付ける上で具体的にできうることは何か。第一に、今回の資料にあるような財政シミュレーションを行う場合には、評価に用いられた試算式(モデル)を公開することが望ましい。試算の前提を共有すると共に、その限界を把握することにつながる。さらに、外部者の検証可能性を上げ、今後の発展的な議論につながるだろう。第二に、より長期的には科学的エビデンス構築のための土壌をさらに整備することが求められる。例えば、今回の上限改定案は「応能負担」の原則に則り、上限額を所得階層に応じて設定している。この議論のためには所得水準と医療利用のデータベースを突合させ、所得階層別に利用動向の変化を検証することが急務であろう。
4.保険の意義としての高額療養費制度
日本の医療費は社会保険方式で賄われており、加入者が拠出する保険料と公費を原資とする。保険の本質的な機能は、発生確率こそ低くとも一度生じれば巨額となる支出リスクを平準化し、家計の急激な所得変動を緩和するという点にある。自動車事故に備える自動車保険や住宅火災に備える火災保険が典型例であろう。したがって、高額医療費への備えは健康保険の最重要機能の1つであり、この観点からも実質的自己負担の上限を定める自己負担限度額の設定は、医療保険制度を論じるうえで最も慎重に扱われるべき課題といえる。
現在、凍結が決まった高額療養費の上限引き上げについては、2025年秋をめどに方向性を決定することが予定されている。この議論を深めるため、医療保険部会の下に「高額療養費制度の在り方に関する専門委員会」が設置され、集中的な審議が進められる見通しだ。当事者の声を十分に汲み取り、科学的知見が適切に政策へ反映されるよう、医療経済学を専門とする者として今後の議論を注視したい。
〈註〉
*1 令和7年1月23日、第192回医療保険部会資料2「高額療養費制度の見直しについて」
*2 令和7年1月23日、第192回医療保険部会資料2「高額療養費制度の見直しについて」p10-13脚注4
*3 日本の研究に関しては、湯田道生「公的医療制度における自己負担率と医療利用および健康」『フィナンシャル・レビュー』(2023年2月)が詳しい総説となっている。
*4 Hitoshi Shigeoka (2014) "The Effect of Patient Cost Sharing on Utilization, Health, and Risk Protection" American Economic Review 104(7): 2152-84.
*5 後藤励・井深陽子『健康経済学 市場と規制のあいだで』有斐閣2020、 p125
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
2025年7月号
【特集:がんと社会】
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井深 陽子(いぶか ようこ)
慶應義塾大学経済学部教授