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【特集:変わる家族と子育て】
藤間公太:社会的養護から家族主義を再考する

2024/03/05

「社会的養護の家庭化」という主張とその問題点

戦後の日本の社会的養護をめぐって繰り返し主張されているのが、その環境を「家庭」に近づけること(以下、「社会的養護の家庭化」と表記)である。具体的には、社会的養護全体に占める家庭養護の割合を高めるとともに、施設養護の運営形態を小規模化することが、そうした主張の中で論じられてきた。

「社会的養護の家庭化」が目指される背景には、社会的養護を受ける子ども1人1人のニーズに個別的に対応することで、その権利を保障しようというねらいがある。戦後日本において、施設養護に対して一貫して向けられた批判の1つが、「ケアの個別性」を十分に担保できないというものである。そうした批判においては、特定の養育者との安定した関係性を築きづらいことや、複数の子どもを一律の支援プログラムによって処遇せざるを得ないことが、施設養護の限界として指摘されてきた。こうした限界を乗り越えるため、運営形態を「家庭」のように小さくすることが主張されてきたのである。また、子どもの権利への関心の高まりという国際的な潮流も、「社会的養護の家庭化」という主張に大きく影響した。

「社会的養護の家庭化」が主張されるとき、「家庭」という言葉で想定されているのは、近代家族における子どものケアであるといえる。註2の通り、「社会的養護の家庭化」という主張は、家庭養護の割合の向上と施設養護の小規模化という2つの柱からなる。家庭養護に該当する里親家庭やファミリーホーム、そして施設の小規模化の例として挙げられる小規模グループケアに共通する特徴をまとめると、そこでいう「家庭」とは「少人数の大人で少人数の子どもをケアする」あり方である。このようなケアのあり方はまさに近代家族以降に成立したものである*5。つまり、近代家族におけるケアをモデルとし、社会的養護をそれに近づけることを目指すことが、「社会的養護の家庭化」という主張の核である。

社会的養護を受ける子どもの養育環境の改善が目指され、活発に議論がなされること自体はもちろん批判されるべきことではないが、「社会的養護の家庭化」という主張にはいくつかの問題がある。ここでは紙幅の関係で2つに絞って指摘しておきたい*6。1つ目の問題は、「社会的養護の家庭化」という主張が、しばしば誤った現状認識のもとになされていることだ。社会的養護の家庭化を主張する議論のなかには「日本は国際的にみて、依然として里親最貧国である*7」といったように、里親委託率の低さだけが問題であるかのように語るものが少なくない。だが、この認識は正確ではない。上村泰裕が明らかにしているように、20歳未満総人口比でみたとき、日本は諸外国と比べて里親だけでなく施設で暮らす子どもの数も実は少ないのだ。それゆえ本来問題とすべきは「里親のなり手がいない」ことではなく、「施設と里親を含む社会的養護全体が貧困なこと*8」なのである。

もう1つの問題は、十分な根拠もなく家族でのケアをモデルとすることで、社会的養護を受ける子どもや、その子どもたちを支援するケアラーたちを不当に貶めてしまう危険があることである。「社会的養護の家庭化」が主張されて久しいが、実は「家庭的な環境」で育つことの意義は十分な根拠を以て主張されているわけではない。「家庭的な環境で育つことが望ましい」という主張を実証的に裏付けるには、家庭養護出身者と施設養護出身者とのそれぞれに対して、現在の暮らし向きや心身の健康状態、ウェルビーイングについての調査を実施し、結果を比較検討することが必要となる。だが、筆者の知る限りそうした試みは体系的には行われていない。また、ケアは子どもそれぞれのニーズに沿って与えられるべきという「個別性」の原則に従うのであれば、どのようなニーズを持つ子どもをどのような環境でケアするのが適切なのか(家庭か施設か、施設であるならば小規模か大規模か、など)について、過去のケース記録などを用いた検討も行われて然るべきである。だがそうした取り組みも特段行われていない。こうした現状に鑑みると、「社会的養護の家庭化」という主張は、「家族によるケアが望ましい」「家族は理想的なケア環境である」といった規範的想定の下に、十分な根拠なく展開されていると評価せざるを得ない。このように十分な根拠もなく家族ケアを理想化することは、社会的養護におけるケアを「理想的ではないもの」「二流のもの」と貶めるとともに、そこで育つ子どもたちを「逸脱的な存在」とする差別的なまなざしを生むことにつながりかねない。

解決策としての脱家族化

ここまで「社会的養護の家庭化」を事例として、家族ケアを無批判にモデル化することが孕む問題を指摘してきたが、家族におけるケアをモデル化、理想化することが問題を帰結するのは、実は社会的養護に限ったことではない。家族主義は家族におけるケアにも問題を帰結しうる。「家族は理想的なケア環境である」という根拠のない規範的想定は、「家族であればケアが担えるはず」という想定に横滑りし、ケアを十分に担えない家族を逸脱的存在とみなすことにつながりやすい。加えて、日本の社会福祉は、当事者が申請しなければ提供されない「申請主義」である。こうした構造下では、家族ケアを絶対視する規範を内面化している者ほど、逸脱的存在とみなされることを恐れて申請をせず、結果として支援につながりえないという事態が発生しかねない。

1つ例を挙げよう。国立社会保障・人口問題研究所が2022年に実施した「第3回生活と支え合いに関する調査」では、18歳未満の子どもがいる者に対して、「子ども食堂・地域食堂を知っているか」を尋ね、「知っている」と回答した者に対して、さらに実際の利用経験を「ある」「ない」「利用する必要がない」の3件法で尋ねている。結果は驚くべきものである。子ども食堂・地域食堂を知っている者2,146名のうち、「利用したことがある」と回答した者の割合は3.3%であり、69.1%が「利用したことがない」、26.7%が「利用の必要がない」と回答しているのだ*9。結果を素直に見れば、子ども食堂・地域食堂を知っている者のうち、「利用の必要がない」わけではないが、「利用したことがない」者が7割近くいるということになる。もちろん「利用したことがない」理由はさまざまであろうが、上述した家族規範の内面化による支援授受の抑制という側面も、少なからず反映されているのではないだろうか。仮にこのような規範の内面化による支援授受の抑制が、将来的に家族にさらなる困難を引き起こすのであれば、それは「家族主義がもたらす家族の困難化」とも呼ぶべき皮肉な事態である。

問題の解決のためには、ケアの脱家族化を進めることが必要である。ここでいうケアの脱家族化には、相互に関連する2つの意味が含まれる。1つは、生存保障の負担、責任を家族から脱し、社会全体で公正に分担するという意味である。これはEsping-Andersen*10が提起するものと同義である。もう1つは、社会保障や社会福祉を提供する条件として家族を設定しないという意味である。家族や家庭を社会福祉や社会保障の条件として設定すると、特定の層を不当にその枠外にはじき出したり、あるいは枠内に入るとみなされた層に不当に何かを課してしまったりするリスクを避けられない。家族に属しているかどうかにかかわらず、何らかのニーズを抱える個人、およびそれをケアする者に対して、普遍主義的に支援を与えるあり方をより一層模索するべきである*11

〈註〉

*1 こうした見方は「社会問題の構築主義」と呼ばれる立場からの児童虐待研究によって示されたものである。上野加代子、1996、『児童虐待の社会学』世界思想社、内田良、2009、『「児童虐待」へのまなざし』世界思想社、などを参照。なお、この立場は「構築されたものだから児童虐待は問題ではない」と主張するものではない。児童虐待の問題化のされ方を可視化することで、そこに不当な偏向が含まれていないかを問い直すことが、この立場の特徴である。

*2 こども家庭庁ウェブサイト。社会的養護には、里親やファミリーホームといった家庭養護と、児童養護施設や児童自立支援施設といった施設養護との、大きく2種類がある。

*3 藤間公太、2017a、「社会的養護にみる家族主義」『三田社会学』22: 38-54。

*4 久保田裕之、2010、「非家族と家族の社会学」(大阪大学大学院人間科学研究科博士論文)。

*5 落合恵美子、2019、『二一世紀家族へ[第四版]』有斐閣。

*6 より詳細な議論は以下の拙著、拙稿を参照していただきたい。藤間公太、2017b、『代替養育の社会学』晃洋書房、藤間公太、2023、「子どもをめぐる政策における家族主義」『現代の社会病理』38: 21-34。

*7 開原久代編、2012、『社会的養護における児童の特性別標準的ケアパッケージ』平成23年度厚生労働科学研究費補助金(政策科学総合研究事業)研究報告書。

*8 上村泰裕、2015、「国際比較からみた日本の子どもの貧困と社会的養護」『世界の児童と母性』79: 56-60。

*9 国立社会保障・人口問題研究所、2023、「2022 年 社会保障・人口問題基本調査 生活と支え合いに関する調査 結果の概要」(https://www.ipss.go.jp/ss-seikatsu/j/2022/SSPL2022_gaiyo/SSPL2022_gaiyo.pdf)。

*10 Esping-Andersen, G.(渡辺雅男・渡辺景子共訳)、2000、『ポスト工業経済の社会的基礎』桜井書店。

*11 脱家族化の達成に向けては、社会福祉、社会保障に関する政策が依拠する思考方法自体も転換する必要がある。前出、藤間(2023)を参照。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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