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【特集:日本の“働き方”再考】
濱口桂一郎:ジョブ型とメンバーシップ型の世界史的源流

2023/02/07

中世ゲルマン法の忠勤契約

こういうローマ法・中国法的発想と全く異なる労働の法的とらえ方が、中世ゲルマン社会で発達した忠勤契約(Treudienstvertrag)です。これは、8~9世紀頃に出現した主君と家来との間の身分法上の契約であって、主君は家来を扶養し保護すべき義務を負うとともに家来は主君の命令に従って働く義務を負います。その意味では御恩と奉公が交換関係にある双務契約ですが、ローマ法的な債権契約ではなく、主君と家来という身分を設定する契約であるという点が大きな違いです。主君は主君として守るべき義務があり、家来は家来として守るべき義務があり、手と口をもって厳かに行われる儀式によってかかる身分関係に入ることで双方にそういう義務が生ずるという構成です。重要なのは、主君と家来は対等ではなく身分的支配従属関係にありますが、しかしどちらも自由人であって奴隷すなわち物ではない、言い換えれば人間と人間の関係であるという点です。

中世初期には主として軍事的役務に従軍することと土地を封地として与えることとの交換関係でしたが、やがて一般民衆の間にも広がっていき、主人と召使いの間の関係を規律する僕婢契約(Gesindevertrag)が生み出されていきます。召使いは主人の権力に服し、忠実に労務に従う義務を負う一方、主人は召使いに衣食住を与え、その身辺を保護する義務を負いました。こういう話を聞くと、それって日本の中世の歴史と同じじゃないかと思いませんか。中世の日本でも、主君から封地を賜り「いざ鎌倉」と軍役に従事する武士たちは御恩と奉公の身分的双務関係にありました。もともとそういう武士の間の関係を指す言葉だった奉公が、近世になると年季奉公など町人同士の間の労務供給関係にそのまま使われるようになったことも、ドイツの歴史と相似的です。この僕婢契約こそが雇用契約の原点であるというのが、19世紀末から20世紀初めに活躍したドイツの法学者オットー・ギールケでした。彼はナポレオン法典に代表されるローマ法的発想でドイツ民法が作られようとしていることを批判し、ゲルマン法の伝統に則った雇用契約の規定を設けるよう主張したのです。彼のような主張をする人をゲルマニストといい、その反対側の人々をロマニストといいます。この対立を戦前マルクス主義法学者の平野義太郎は『民法におけるローマ思想とゲルマン思想』(有斐閣)という本にまとめました。

少し話がさかのぼりますが、中世後期の14~16世紀にかけて、ローマ法がドイツに盛んに取り入れられました。封建社会から市場経済に移行しつつあった当時のドイツ社会にとって、所有権と契約を基本とするローマ法が有用であったからです。そこで、かつては身分契約的色彩が色濃くあったギルドの親方と職人の間の労務契約(Arbeitsvertrag)も次第に独立性を強め、自由労務契約になっていきました。18世紀末から19世紀初めにかけてドイツ各国では民法典が続々と制定されていきますが、1794年のプロイセン、1811年のオーストリア、1865年のザクセンなど、いずれもフランス民法と同様、身分契約ではなく債権契約として雇用契約を位置づけています。ドイツ統一後のドイツ民法もそういう流れで作られようとしていたことに対する批判が、上記ギールケのものでした。もっとも家事使用人についてはかなり後まで身分契約とされ、僕婢条例が廃止されたのは第一次大戦後の1918年です。

このギールケの議論を日本で紹介したのが末川博です。第一次大戦後の1921年、『法学論叢』という雑誌に書いた「雇傭契約発展の史的考察」という論文は、ギールケの議論を、個人主義的なローマ法思想から集団主義的なゲルマン法思想へという、いわば進歩的な考え方として紹介しました。それは、まだ労働法がほとんど発展していなかった日本としては、不思議ではない反応だったと言えましょう。戦後日本共産党のイデオローグとして活躍した平野義太郎が戦前ゲルマン法思想を褒め称えたのも、この文脈で理解できます。

ところが、本家のドイツではその後大変皮肉な事態が展開します。権力を握ったナチス政権は、1934年の国民労働秩序法によって、雇用関係を民法の規定する労務と報酬の交換ではなく、経営共同体における指導者と従者の関係と規定したのです。注目すべきはその理屈づけに、ギールケ流の忠勤契約論が使われたことです。正確に言えば、資本主義社会に対する改良の手段として古来の忠勤契約を持ち出して、使用者の労働者に対する保護義務を説こうとしたギールケの意図とはかけ離れて、主君と家来の身分関係(のまがいもの)をグロテスクに復活させるのに使われたと言うべきでしょう。この反省もあって、戦後西ドイツではギールケ流の人格的共同体関係理論は流行らなくなります。

メンバーシップ型思想の復活

戦時下日本にも同盟国ドイツからナチス思想が流入し、戦前進歩的労働法学を作り上げてきた末弘厳太郞も、日本主義法学というプロジェクトに参加したりしています。しかし世の中に大きな影響を与えたのは皇国勤労観という名で打ち出された賃金思想でしょう。並木製作所(現パイロット万年筆)の渡部旭は1940年、欧米流の契約賃金説や労働商品説に由来する賃金制度を海の彼方に吹き飛ばし、日本本来のお給金制に立ち戻るべきだと論じました。この生活給思想を戦後受け継いだのは、皮肉なことにGHQによって設立が奨励された労働組合でした。1946年の電産型賃金体系は、年齢と扶養家族数に基づく賃金制度を確立し、労働諮問委員会や世界労連の痛烈な批判にもかかわらずこれを断固堅持したのです。

その後1950年代から60年代にかけては、政府やとりわけ経営側が同一労働同一賃金原則に基づく職務給への移行を主張したにもかかわらずそれが実現せず、やがて1960年代末から経営側主導で職能資格制度が確立していきます。メンバーシップ型といわれる日本型雇用システムが注目されるようになるのはこの頃からです。硬直的なジョブ型社会に対し、柔軟なメンバーシップ型の経済的優位性を説く疑似科学的な議論が流行したのもこの時期です。

いうまでもなくそれは、ナチスドイツや戦時下日本のようにむき出しの主従関係論、忠勤契約論で語られることはほとんどなく、むしろある種社会主義的な労働者保護を前面に出す形で進められました。しかし、にもかかわらず、それが暗黙のうちに企業を人格共同体関係とする考え方を前提として発展していったこともまた否定することのできない事実でしょう。職務、時間、空間が無限定の就労義務を果たす代わりに、定年退職まで年功昇給により家族も含めた生活の安定を保障するというこの社会的交換は、どうみても中世の御恩と奉公の交換契約の現代版という匂いがします。

法律自体はローマ法の伝統を引き継ぎ、労務という無形の物を賃貸借する契約として雇用を位置づけながら、現実社会は本家のドイツともかけ離れたほどに会社と社員が人格的に結合した構造が確立した戦後日本という社会を生み出したものは何なのか? 古代ローマや中世ドイツを遍歴することで、そのヒントが得られるかもしれません。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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