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【特集:日本の“働き方”再考】
濱口桂一郎:ジョブ型とメンバーシップ型の世界史的源流

2023/02/07

  • 濱口 桂一郎(はまぐち けいいちろう)

    労働政策研究・研修機構労働政策研究所所長

はじめに

私が2021年9月に『ジョブ型雇用社会とは何か』(岩波新書)を出版したのは、現在世間で流行しているジョブ型論にはあまりにも多くの誤解や間違いが氾濫しているからです。まず認識してほしいのは、ジョブ型は決して新しいものではなく、むしろ古くさいということです。こういうことを聞くと、「何を言っているのか。古くさく、硬直的で、生産性の低い日本の雇用システムであるメンバーシップ型をやめて、柔軟で生産性の高い、新しいジョブ型に移行すべきであるという説が流行っているではないか」と思われるかもしれません。確かに今、ジョブ型という言葉を弄んでいる人たちの多くはその手の主張を展開していますが、それは間違いで、ジョブ型の方がメンバーシップ型よりも古いのです。ジョブ型がどのくらい古いかというと、少なくとも100年、200年ぐらいの歴史があります。18~19世紀に近代産業社会がイギリスを起点に始まり、その後ヨーロッパ諸国、アメリカ、日本そしてアジア諸国へと徐々に広がって行ったわけですが、この近代社会における企業組織の基本構造が、ジョブに人をはめ込むジョブ型なのです。

それに対し、人に仕事をあてがうメンバーシップ型の考え方は、日本で戦時期から終戦直後に打ち出され、高度成長期に確立し、1970年代半ばから1990年代半ばにかけての約20年間には日本の経済パフォーマンスの源泉として持て囃されましたが、その後は日本経済凋落の戦犯として批判の対象となっている古びた新商品です。ここから分かるように、ジョブ型とメンバーシップ型のどちらが本質的に優れている/劣っているというたぐいの議論は、全て時代の空気に乗っているだけの空疎な議論に過ぎません。硬直的なジョブ型に比べ、メンバーシップ型は柔軟性に富んでいますが、その反面、若い男性の無限定な働き方を前提とするため、女性や高齢者、非正規労働といった社会的矛盾を生み出し、今日では社会学的持続可能性に欠けます。ですから、日本的柔軟性を否定して欧米的な硬直性を導入しようとする復古的改革(働き方改革)が求められたのです。ここを理解していないコンサルが売り歩くジョブ型は大体インチキ商品と思っていいでしょう。

ジョブ型民法の源流はフランスの労務賃貸借

そもそも日本国の基本的法制たる民法は、雇用契約を労働に従事することと報酬の支払を対価とする債権契約と定義しています。労働者は企業の取引相手であって、メンバーではあり得ないのです。ですから法律上社員と呼べるのは出資者のみです。日本国の全ての法令を検索しても、労働者を社員と呼ぶ例はありません。終戦直後に占領下で作られた労働組合法や労働基準法等の古典的労働法も、企業と労働者は取引関係にあるという枠組みを大前提に、雇用契約の内容に最低限の公的規制を加えたり、労働者にカルテルを認めたものであって、ジョブ型の法制であることに何の変わりもないのです。

こういうジョブ型の法制度と、労働者を会社のメンバーとみなす現実社会との間のすき間を埋めてきたのが判例法理です。信義則や権利濫用法理といった法の一般原則を駆使することで、ジョブ型法体系をメンバーシップ型社会の現実に適応させてきた司法による事実上の立法と言えます。そうした判例法理が積み重なり、日本の労働社会を規律する原則は六法全書の条文ではなく、判決文に現れた現実社会の規範ということになっていきました。日本の労働法の教科書が複雑怪奇なのは、ジョブ型の条文とメンバーシップ型の判例をいかにも整合的であるかのように説明しようとするからなのです。

とはいえここで疑問を持つ人もいるでしょう。そもそも民法が雇用契約を債権契約とするのはなぜなのか。なぜ身分契約ではないのかと。その理由は、明治時代に日本が民法制定のお手本にしたフランス民法がそうだったからです。現行民法が制定されたのは1896(明治29)年ですが、その前に制定はされたけれども施行されなかった旧民法というのがありました。その規定上は現行民法と同じ「雇傭」でしたが、その原案を見ると「雇使の賃貸」という表現になっていました。この表現はフランス民法(ナポレオン法典)の直訳です。

いま市ヶ谷の法政大学にはボワソナードタワーという高い塔が立っていますが、このタワーに名を残しているボワソナードというフランス人が、明治日本のお雇い外国人として民法の制定に力を尽くしたことはご存じの方も多いでしょう。旧民法の原案を見ると、本当にフランス民法の丸写しという感じです。フランス民法はフランス革命後の1804年に制定され「ナポレオン法典」と呼ばれています。この法典では、現在でも物の賃貸借と労務の賃貸借が同じ概念の下に規定されています。第3篇第8章「賃貸借」冒頭の第1708条はこう述べます。

  賃貸借契約に2種類ある。物の賃貸借と労務の賃貸借である。

  Il y a deux sortes de contrats de louage: Celui des choses, Et celui d’ouvrage.

同法典にはもう1つ「家畜の賃貸借」というのもありますが、これは「物」の一種でしょう。そして労務の賃貸借をさらに役務の賃貸借(Du louage de service)、陸上水上運送、見積請負に分け、この役務の賃貸借が雇用契約に当たります。要するに、日本民法の源泉であるフランス民法は現在でも雇用を労務サービスの賃貸借契約と位置づけているのです。

そのさらに源流は古代ローマ法

このフランス民法の発想は、古代ローマ法の発想を受け継いだものです。ローマ法では物の賃貸借(locatio conductio rei)と雇用(locatio conductio operarum)と請負(locatio conductio operaris) をすべて賃貸借(locatio conductio)という概念に一括していました。しかし、そもそもなんでローマ人は労務の賃貸借なんておかしなことを思いついたのでしょうか。

それを理解するためには、古代ローマ社会でもっとも重要な労働力利用形態は奴隷制であったということを思い出す必要があります。奴隷は生物学的には人間ですが、法的には物であって法的人格を有しません。通常は自由人によって所有され、その指揮命令下で労務に服しますが、それは法的関係ではありません。ちょうど、馬や牛のような家畜を指揮命令して働かせるのと同じで、煮て食おうが焼いて食おうが勝手です。ところで、フランス民法に家畜の賃貸借というのがありましたね。それと同じ発想で、奴隷の賃貸借というのも可能です。法律的にはあくまでも物の賃貸借です。ただ、借りた物ですから煮て食おうが焼いて食おうが勝手ではありません。大事に使って傷をつけずに持ち主に返さなければなりません。

さあ、ここがロードスです、ここで跳びましょう。奴隷を貸し出す主人と貸し出される奴隷が同じ人間だったら?主人としての人間が奴隷としての自分を賃料と引き替えに貸し出すという形になります。この人はもちろん自由人ですから、この貸し出す契約は対等の人格同士の契約です。しかし貸し出された人が実際にやる作業は、奴隷がやるのと同じような借り主の指揮命令下での作業になります。貧富の差が拡大して自由人が生活のために自分自身を貸し出すようになったことと、もう一つは解放された奴隷が引き続き同じ旧主人の下で働き続けることが多かったことから、この法形式が次第に増えていったということです。今日の雇用契約には、この古代ローマの労務賃貸借以来の二面性が脈々と受け継がれています。二面性とはすなわち、法形式上は全く対等な自由人同士の賃貸借契約であるという面と、実態的には主人が家畜や奴隷を使役するのと同じような支配従属関係の下に置かれるという面です。この二面性を矛盾なく統一しているのは、人間の労務をあたかも物であるかのように切り出して賃貸借契約の対象にするという法的手法であるわけです。

ちなみに、こうしたローマ法的発想と全く同じ発想をしているのが中国法です。ローマ法がlocatio conductio と呼んでいるものを、中国法では賃約と呼びます。「賃」と引き替えに有形無形の何かを貸す契約です。その影響を受けて、日本でも家賃、工賃、労賃、お駄賃と、全部「賃」がつきます。イスラム法でも賃貸借と雇用をまとめて賃約(ijāra)と呼ぶそうです。さらに遡れば、古代オリエントの楔形文字法でも、雇用と賃貸借は同一概念だったといわれています。

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