三田評論ONLINE

【特集:アフターコロナのTOKYO論】
座談会:コロナ禍を経て 明日の東京に暮らす

2022/08/05

雑多性という都市の魅力

小林 ミュージアムというのは、それこそ都市にあるエンタメの一つかもしれませんが、実際にアートというものはまさにリアルな空間でつくられ、リアルな空間で見て、感じてもらうためにつくられたものだと考えると、その空間から外してしまうのが非常に難しいということだと思います。

おっしゃるように都市こそ雑多性があると思うんですよね。人があまりいない疎な空間では雑多性というのはあまり重要ではない。ギュッと集まっていて、別にそこにいなくてもいい人がいたり、なくてもいいものがあるといったことが許容されるのが都市だったりする。何かそういう都市の隙間みたいなところに面白さがある。

本間 先ほど更新というキーワードが出てきましたが、やはり都市の文化の面白さというのは、いろいろな人が集まって、それぞれのタイミングで文化に関わっている、その更新の、代謝のタイミングが一様ではないところにあると思います。今の若い人がアナログレコードの良さを見出しているように、「ズレ」がある。ある文化に対して焦点が当たるとか、新しい文化が生まれるといったことが、一様ではなくてズレながら行われていくところが、都市の文化を面白く、また強靭にしていると思うのです。

都市の再開発の話で言うと、300万平米という物理的な空間が一時に建て替えられ、一定の価値観を共有する人たちのコントロールの下に一斉に書き換えられる時、もしかしたら代謝のタイミングのズレで担保されているかもしれない都市文化の強さみたいなものに、脆さが生まれてしまうのではないかという危機感が少しあります。

小林 一遍に変わることで、それが失われてしまわないかということですね。

一つ伺いたいのは、アートはやはり経済が発展してこれから伸びようという時代ではなかなか余裕がなくて、ある種、成熟した都市や国家でこそ、評価されるのではないかという考え方があります。この何十年か日本は停滞というか成熟してきたと言えるかもしれないので、ようやくアートに目が向けられるような時代が来ているのではとも思うのですが。

本間 そうですね。でも日本の芸術が、今、元気がいいのかと言うと、それはよくわからないですね。

例えば第二次世界大戦後の厳しい時代、日本の前衛芸術は、国際的に見ても先端を行くものだった。そういった活動は今、アメリカなどで高く評価されています。そうなると、クリエイターたち、アーティストたちの作品をつくる力は、経済的な余裕と必ずしもリンクしないとも考えられます。

一方で、それに相対する社会の側には、おっしゃるようなことがあるのかもしれません。ある学生が、現代アートはよくわからないと感じるけれど、それが展覧会などの形で目に見えるところに出てくるのは、それを支える人たちがいることを示している。だから今、自分のいる社会が、よくわからないものを支えることができる社会で、自分も受け入れてもらえると思える気がする。つまり、現代アートの存在に、社会に対する信頼みたいなものを見いだせると言うので、ハッとしたことがあります。

「つながりづくり」が必要

小林 アートと都市のつながりを考えることは面白くかつ大切ですね。さて、ディマさんは、都市デザインとかまちづくり、都市計画などがご専門ですが、一方でドイツから日本に来られているという視点は日本人には持ち得ない視点です。もう日本はずいぶん長いですよね。

ディマ 21年です。

小林 じゃあ人生の半分ぐらい日本ですね(笑)。それでもある種きちんと外から日本を見る目をお持ちだと思いますが、どんなことを感じていらっしゃいますか。

ディマ そうですね。やはりすごく東京や日本の都市がレジリエンスを持っていることは理解できました。密度が高く、満員電車であっても、コロナの感染率は高くなっていなかったですよね。アメリカやヨーロッパの都市と比べると、そのレジリエンスがあったんですね。でも、強い点が同時に弱点でもあるとも言えます。

例えばパンデミックの前から「孤独」がすごく感じられた。そもそもコロナ前から日常生活で人とあまりつながっていないんですよね。例えば新しい家は窓がだんだん小さくなっていたり、人はあまり外に出て交流していないように思えました。人の間のつながりが非常に弱かったから、感染症流行の中では、逆にそれが強みになったんですよね。

でもやはりこれから、少子高齢化が進んで、温暖化も進んで、国際的なエネルギーや食料品の問題など、大きい課題は残っている。それをどうしても考えなければいけない。その際に、やはりディープアダプテーション(「深い適応」)という概念がありますが、本当に深くアダプテーションしなければいけないと思います。

これから社会的なレジリエンスをつくるためには、社会的なネットワーク、人の間のネットワークはすごく重要なポイントです。でも、新しい公園を見ると、だめなサインがたくさんある。テニスコートの周りもカバーがあって、公共空間の中でも、すごくプライベートな閉鎖感があるんですよね。それはどうしたらいいか考えなければいけないと思います。そのきっかけづくりが重要なポイントになると思います。場づくりとかつながりづくりですね。

谷川さんが言われた通り、新しいビジネスの環境はそれも提供できるし、本間さんが言われた通り、アートはネットワークをつくるためのツールとしても考えられるし、これからそうしたことを考えなければいけないですね。

小林 「つながりづくり」ということですね。日本の公園なんかを見ていても、あれはするな、これはするなばかりですよね。あれはがっかりしますね。

ディマ 知らない人とつながりたいと思っても、怪しいとか変な人と思われて会話もできないですよね。会話をしたいなら、古い銭湯とか下町のおばちゃんの店に行かなきゃいけないです。それ以外はあまりつながれないですね。

仕事はすごく重要なことですけど、仕事のために生活していた人がかなりいました。それはたぶんコロナによってこれから変わるんですよね。ワークライフバランスが重視されて、新しい可能性が生まれてくるから。

小林 私はディマさんは大きいスケールの話をするのかなと思いきや、一番人間的な話でした(笑)。人と人のつながりが一番大事だと。それはその通りだと思うし、そういう言葉を言っていただけるというのは、日本のよさは本来、人と人とが本当に信頼してつながり合っているところにあるはずだということなのだと思います。でも、本当は、子供が転んだら起こしてあげたいけれど、子供好きな変な人が来たと心配させたくないから放っておくみたいな、過度な気遣いをしたりする。

そういう、先回りして気を遣うところがあるから、皆マスクを外さないのかもしれない。何かそういうところが少し人間の関係を疎にして孤独にしてしまっているところはありますよね。

アフターコロナの東京を考える際にも、人のつながりを考えることは、大事な話のような気がしますね。人間のスケールで言うと、そのように、つながることをもう一回考えろと言われているような気がします。

ディマ そうですね。海外だと公園の中にも、または丸の内みたいなビジネス街にも、アーティストがいます。でもそれはエンターテインメントのためではなくて、人をつなぐためのアーティストです。

例えばコロンビアのボゴタに「トラフィック・マイム」という人たちがいます。寂しいおばあちゃんたちをつなぐためのアーティストです。政府がそのお金を出しているんです。今までは日本はそういう意識はあまりなかったですね。東北の復興でも、ハードウェアのためにお金だけを出していて、ソーシャルカフェをつくるためのお金とか、ソーシャルアーツをやるためのお金は出ていないですね。

今までは経済的な利益が見せられなければ難しかったけど、新しい施策をつくりたいなと思います。

本間 ソーシャリー・エンゲージド・アート(SEA)と言いますが、コミュニティへの参加や協働を通じて、社会的価値観の変革を促す活動があります。アーティストがある種異物として社会に挟み込まれることによって、固まっている枠組みをずらして隙間を作り、コミュニケーションを生み出す役割を担うわけです。

しかしディマさんのお話のように、ちゃんとそこに予算がつくかというところが難しい。

小林 なるほど。都市は他人同士が無関心でなければいけない、介入してはいけないルールみたいなのがあるけれども、興味を誘発して、そこから何かコミュニケーションや関係が生まれるようなことを、もっとやったらいいのにと思いますね。それは本来の都市の、知らない人たちがそこで出会う。セレンディピティのような話だと思うのですが、偶発性のようなことを誘発していこうという活動ですよね。

加速する都市の「体験化」

田中 コロナで変わったこともあるのですが、私はコロナがなくても日本の都市で進んでいたことが、よりはっきりわかったことのほうが多いのではないかと思うのです。

例えばこれまでも続いてきたことの延長で情報化がどんどん進み、テレワークが促進され、離れていても用事を済ますことができるようになった。ATMにお金を下ろしにいかなければいけないとか、印鑑を押したり、郵便を出したり、いろいろな手段が集まる場所として都市というものはあったと思うのですが、それが情報化によって離れていてもできるようになった。

そういう手段が遠隔で代替され、社会が情報化すればするほど、都市はどんどん「体験化する」ことに重きがおかれるようになったのではないかと思います、それは食とエンタメとおっしゃっていたことにつながります。

つまりバーチャルなテクノロジーが進んで味覚を再現できるかと言うと、すぐには難しい。すると、そういう体験性の価値が高まっていき、それを発見していくというサイクルができるのだろうと思います。その中でもアートというものが非常に価値を持つというコンテクストが見えやすくなってきたのだろうと思うのですね。

ワークショップとか参加型ということが、ずっと言われてきています。単に鑑賞するのではなくて、関わり合って、何か手触りを持ったものとして価値を持たせることは、コロナ前からずっと続いてきたし、都市計画の場面でも、タクティカル・アーバニズムというプロセスを重視した都市計画のいろいろな手法が発達してきている。

ファンカルチャーのような、アイドルオタク的な活動もそうです。『コンヴァージェンス・カルチャー』という有名な本がありますが、それも参加型のファンの活動、つながりのようなものを非常に重視している。

ただ、コロナになってよりその価値が高くなったと思うのですが、それが、とにかく何かイベントやアクティビティをやらなければとなってくると、その場限りの消費になってしまうのではないかという危惧もあります。

アートとか文化というのはある程度経験として蓄積されていくようなものでないと、地域社会の中にたまっていかないし、ある程度の持続性とか、それを受け止める人の厚みのようなものがないと、一時的な騒ぎに過ぎないこともあると思います。

小林 継続性が大事ということですね。

田中 もう1つ、谷川さんから60%の戻りという話がありましたが、すると残りの40%を取り戻すために客単価を上げます、という話になってくると、それは「格差」を強く押し進めることにもなりかねない。これは非常に悩ましいところだなと思います。

社会学だと、経済的に豊かになることと人間関係を広げることを「ライフチャンス」と表現するのですが、そういったライフチャンスを得るために都市に出てくるということがあったわけです。都市環境の価値を上げ、豊かな環境に住むということが非常に重視されると、格差が広がってしまうのではないかというネガティブな要素がある。ですので、持続性に加えて、包摂性のあるものとして、どういう価値がその場所にあるのかということは考えなければとも思います。

もう1つ、日本的な都市のあり方ですが、ディマさんがおっしゃったことはすごくよくわかるのです。つまりコロナの感染者数が日本は少なかったのは、皆、政府が要請したら自粛してくれるという、自己抑制の強さにあったのでしょう。海外のライブ会場を見ると、皆マスクを取って騒いでいますが、日本だとやはり皆が抑制してしまう。

昔、神島二郎という政治学者が日本の都市というのは「第二のムラ」だと言っていました。戦前から戦後にかけて地方から出てきた人たちの集まりでできたムラがたくさん集まったのが東京だというわけです。そこでは内輪ではコミュニケーションをとるのだけれど、知らない人には人見知りをしたり、抑制的にふるまってしまう。そうした時にマスクというのは、見知らぬ人に対するシールド、盾になっているとも言える。表情を読み取られないとか、自分のことを知らない人にあまり知られないようにする、ということです。

コロナの前から「だてマスク」という、風邪でもないのにマスクをする人たちが結構いました。女性の場合は化粧しなくてもいいとか、表情を読み取られないとか、ある種、値踏みされないようなシールドになっているところがある。すると社会学だと、サードプレイスで自己開示をして、コミュニティの核をつくっていくことが理想像として言われたりもしますが、そこで自己抑制の作法が強すぎると、壁になることもあるのかなと思っています。

小林 日本人の自己抑制心というのは本当に強いですね。皆の迷惑にならないようにしようという態度は美徳ではあるけれど、それがいろいろな意味でこぢんまりとコンパクトにしてしまって、伸び伸びと何かをしようとすることができなくなってしまっているという面もあると思うんですね。

最近、例えば学生が外国に留学をしたいという意識は30年前に僕たちが持っていた意識に比べて相当低いと思うのです。別に日本でいいです、とても居心地いいし、無理して英語をしゃべる必要もないしと。もったいないなと思うのだけれども、いや、日本っていい国だからみたいなのがある。

そういった傾向がある時に、できるだけ外に出ないでくださいと言われ、安穏と暮らしていけるというようなことが逆に閉じた日本にしてしまっていないか。私はすごくそれが気になるところです。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事