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【特集:SDGs時代の企業の社会性】
梅津光弘:2022年におけるSDGsとそのインプリケーション──ビジネス倫理学からの逡巡

2022/06/06

6.ディコンストラクションとしてのSDGs

もともと戦勝国が主導してできた国連に、ビジネス・セクターを組み込むことは矛盾ではないか、という批判もある。しかし、あえて言わせてもらえば、一見矛盾した前提を思想や組織に組み込むことから、組織や社会を内部的に変化させようという試み自体が、現代的な脱構築の方法なのである。それはビジネスに倫理をチャージしようとする、ビジネス倫理学の試みにも似ている。

SDGsには民間の、しかもビジネス・セクターからの知見とエネルギーが取り込まれているが、それは容易なことではなかった。これも日本ではあまり知られていないことなのだが、国連という組織はどこかビジネスに対して冷淡なところがあった。それはガバメント・セクターやNGO、NPOの人々が持つ、典型的なビジネスに対する偏見による。曰く「ビジネスの連中は、利己的な金もうけのことしか考えない輩であって信用できない」。

確かにビジネスには営利目的の組織という側面があることも事実である。しかし、ビジネスが自社の利益のことしか考えない、あるいは株主の利益最優先であるべきとする説は、ビジネス倫理学が常に戦ってきた「非倫理的ビジネスの神話」であって、すでに現代では過去のものとなっている。

具体的にはSDGsの目標7、8、9などに見られる事柄は、MDGsにはなかった項目であり、これまでの反ビジネス的な国連の発想にはないビジネスライクなものでもある。貧困や飢餓の克服などの課題は、政府間の相互支援や経済協力が欠かせないことも確かだが、それだけでは不十分であり、具体的な援助の実践となると、これまでもNGO、NPOなどの非営利組織やQUANGOsという半官半民のNGOsセクターなどの助けがなければ全く機能しなかったのである。

そうしたサークルになぜ、企業は入れてもらえなかったのか? 先述の「非倫理的ビジネスの神話」が悪影響したのではないかと思われるのだが、貧困を克服するには、援助だけではだめで、当該の国や地域に産業を生じさせ、自立した経済活動を促進していくことこそがその解決になる。ビジネスは富を自立的、効率的に生み出す唯一のエンジンであって、政府もNGOも富を自立的に生み出すことには長けていないし、組織を効率的に動かすことにも疎い組織である。生産力がなければ、地域や国が貧困から抜け出すことができないのと同時に、誰かが富を生み出し続けるのでなければ、持続的な発展も支援もありえないのである。

他方ビジネス自身もここ20年ほどの間に「非倫理的ビジネスの神話」の呪縛から解放されてCSRなどに力を入れてきている。日本でも2003年がCSR元年と言われ、その頃から多くの企業でCSR推進部が立ち上がり、最近ではサステナビリティー推進部などがその活動を「統合報告書」にまとめるようになってきた。まだまだ道なかばではあるけれども、SDGsの目標17に明記されている、「トライ・セクターアライアンス」と呼ばれる、政府、企業、NGOの連携も進みつつある。

7.目的論的なアプローチの再評価

とはいえトライセクター連携も、口で言うほど容易なものではない。公共の安全と福祉を目指し、財はビジネスや市民からの税金で賄う政府セクター、効率性には長けているが、公共の福祉と言われてもピンとこないビジネスセクター、個別具体的な領域に特化した福祉を実践するが、富も産まなければ効率性も考えない非営利セクター、それぞれに異なった考え方と専門性を担ってきた3セクターは互いに異なった思想的前提によって成長してきたが故に、急に連携・協力せよなどと言われても、三つ巴の困惑でことは進まなくなってしまう。SDGsはそのことへの答えも与えていると思われる。

それは目的論的なアプローチであるということだ。目的論という説明の仕方は、古くはアリストテレスの四原因説にまで遡ることができる。アリストテレスによれば、学的な知識は原因の探求であり、原因を説明する要素は4つあって形相因、質料因、機動因、目的因の全ての原因を説明してこそ真の知識と言える。どれも古代ギリシャの考え方であって、現代人にはなんのことかさっぱりわからない話であろう。形相因だけで説明しようとすると観念論に、質料因だけだと唯物論に、機動因だけだと機械論に、目的因だけだと目的論的な説明になる。現代の学問は唯物論的かつ機械論的な説明を持って真の説明と考える傾向があり、観念論も目的論もあまり評価されてこなかった。

ところが近年、事柄の究極目的は何か?という問いが勢力を回復してきている。最近の経営学の文献でも「パーパス経営」などというタイトルを多々見受けるようになった。これはまさに目的論からする説明の復活であると言える。目的論は人間の意図や動機といった、優れて人間的な説明の仕方であると同時に、人間を生き生きと共同作業に駆り立て、達成感ややりがいといった心理的効果を生み出すこともわかってきた。これと対照的なのは自然科学的、物理帝国主義的な説明であって、質料因と機動因のみを根拠にした説明であった。これは無機的な物質の機械的連動、因果の連鎖によって、物事を自動的に、人間の意図などとは独立に説明しようとする、まさに機械論的な説明の仕方である。そこには人間の意図や目的という自由な要素はできるだけ排除しようとする方法論的な偏りがある。

とはいえ、物質の運動を何らかの内的意図によって説明しようとすると、それは擬人的な説明であって科学的には受け入れ難いのは当然としても、人間社会の動きを物理的、機械論的にのみ説明しようとするのにも当然無理がある。人間の行為は、意図、動機、目的といった内的な精神活動、自由意志によって可能となる部分があるからだ。20世紀を通じて、科学の名の下にこうした人間の内的精神活動を否定して、社会現象を説明しようとする動きがあったことも事実であり、筆者はそのことが学問の世界にはかりしれない弊害をもたらしたと考える。

国連のような大きな組織も、政治的なパワーや経済的な利害という、「飴と鞭」だけによって動かそうとするには無理がある。ましてや世界の平和や自然環境の保全などの重要課題を、政治力学のみによって解決しようとすると、今回のような軍事的な行為を暴発させる危険性は避けられない。物質的機械論の世界観がリアルな説得力を持つ一方、今一度精神論と目的論で一致点を見出し、そのことの遂行のためにさまざまなセクターが中長期的視点からの連携をはかることの意味はSDGsを待たずとも重要であると思われる。

8.逡巡の終わりに

この原稿を執筆している2022年5月初旬の時点で、ウクライナでの戦闘は続いている。このような状況に直面するのは私にとっては2度目の経験である。最初のそれはアメリカの大学で教鞭をとり始めた1990年、第一次湾岸戦争が勃発した時だった。その頃私はシカゴ郊外のノースウェスタン大学で講義をしていたのだが、何やら日本を代弁する教員のような役割を担わされて、アメリカ人学生からは「なぜ日本はこの戦争に参加しないのか」と教室で突っ込まれたものだった。「日本には憲法9条という平和主義の条文があって……」と必死で弁明したのだが、それに対する学生の反応は実に単純かつ直裁なものであった。「それではなぜ9条を改正しないのか」と。その後私は母国日本に帰国し、慶應義塾で教鞭をとる幸運に恵まれた。浅学非才ながら倫理の力を信じて、すなわち人間の精神と善意の力を信じて、私なりにビジネス倫理学や企業の社会的責任について語ってきたつもりである。あれから30年以上が経ち、再び同じような状況に直面している自分がいる。「究めていよゝ遠くとも」という塾歌の歌詞が身に沁みる今日この頃である。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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