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【特集:SDGs時代の企業の社会性】
梅津光弘:2022年におけるSDGsとそのインプリケーション──ビジネス倫理学からの逡巡

2022/06/06

  • 梅津 光弘(うめづ みつひろ)

    慶應義塾大学商学部教授

1.はじめに──SDGsとのつきあい

SDGsが世間で大きく取り上げられて久しい。この運動がここまで盛り上がりをみせて、ESG投資などとともに今や企業のみならず行政、NGO・NPO、教育機関など、社会のありとあらゆる組織における重要課題として取り上げられるようになった。コロナ禍の最中も、「CSRやSDGsなどと言っている場合か」という批判が噴出するのではと危惧したが、それは全くの杞憂であった。むしろSDGsの話題は、新聞といわずテレビといわず、メディアに取り上げられない日はないと言っても過言ではない。

しかし、これは単にマスメディアが煽って起きた一時的なブームでもない。この運動が提起している17の目標が、人類のサバイバルをかけて中長期的に目指すべき本質的、普遍的かつ究極的な目的を示しているからに他ならない。そしてSDGsの意義は全世界の学者や識者からも高い評価を受けていると言ってよい。筆者はビジネス倫理学や企業社会責任論(CSR論)等を専門に研究してきたが、アメリカの大学院で博士論文の指導教授だった恩師に誘われて、SDGsおよびそれに先立つUNGC(United Nations Global Compact= 国連グローバル・コンパクト)およびそのサブ領域であるPRME(Principles for Responsible Management Education= 責任教育原則)などの草案の段階から関わってきた。かれこれ20年近くこうした国連がらみの運動に関わってきたことになる。

2.当為命題としてのSDGs

SDGsの17の目標

SDGsの17の目標は、たいへんカラフルでわかりやすい言葉でまとめられているが、目標というのは理念的な当為命題(ものの何であるべきか)であって、科学的検証が可能である事実命題(ものの何であるか)とは独立の性格を有する。実証主義の台頭以降、学問の世界では経験的な観察や検証が可能な事実命題が尊重され、倫理の言葉を中心とする規範論や当為を語ることは敬遠される傾向が長らく続いてきた。ビジネス倫理やCSR、コンプライアンスなど私の専門とする分野も、哲学的というレッテルのもと、あらゆる批判、懐疑、軽視、蔑視にさらされてきたのだが、ようやくこうした当為命題の意義が再評価されるにいたったことは隔世の感であり、今年度いっぱいで定年退職する身としては感無量としか言いようがない。

3.ロシアのウクライナ侵攻とSDGs

研究者人生の最後に学者冥利に尽きるSDGsの興隆を見ることができてよかったと情緒的な感慨に浸っていた矢先に、とんでもない事態が起こった。2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻である。21世紀も20年以上過ぎたこの年に、言語道断の戦争犯罪、人道を無視した市民の殺戮、目を背けたくなる大量破壊を目撃するとは思ってもみなかった。そしてこの行為は、20世紀後半から世界が漸進的に築いてきた平和と世界秩序に関する規範的パラダイムを一瞬にして転覆させる暴挙であると思う。

さらに私が憂慮していることは、せっかく盛り上がったSDGsをはじめとする、善意に基づく人道的な社会貢献や国際協力の枠組みを根本的に否定して、軍事力、強制力を主軸とする、より強権的なマキャベリズムの考え方に世論が傾倒するのではないかという点である。そもそもSDGsを主導した国連の無力さも批判されている。ロシアの暴挙に対して何もできないでいる国連は意味があるのかとの怒りの声が爆発し、いきおいSDGsの運動自体も国連の能天気な戯言としてあしらわれかねない論調がここそこに見受けられるようになった。

国際連合は第二次世界大戦の後、こうした大戦を再び起こさないために「国際的な平和と安全」を目的として設立された機関である。ところが、ご存知のようにその設立主体であった連合国のうち5カ国が安全保障理事会の常任理事国となり、国連憲章の改定を含む決議についてことごとく拒否権を持っているために、何事も実行に移せない機能不全に常に陥るのである。したがって国連に問題があることは、今回の暴挙を待つまでもなく、周知の事実だった。日本では国連の評価はそこそこではあるが、米国などでは「世界最大の悪い冗談(The world’s largest bad joke)」と言われる所以もそこにある。

4.国連、SDGs、 慶應義塾の精神

国連の改革は今回のウクライナ侵攻によって必須の課題となって当然である。戦争犯罪を犯すような国家が安全保障理事会の常任理事国として居座り、この言語道断の事態に対して何もできないでいることの異常さは強調してしすぎることはない。ただし1人のメガロマニアックな独裁者の愚挙によって、全世界が共通課題として目指してきたSDGsの目標を否定し去るのは短絡的かつ不適当であり、あってはならないことだ。あわてて「産湯とともに赤子を捨てる」ようなことをしてはならない。また今こそ慶應義塾の徽章の由来でもある、「ペンは剣よりも強し」という言葉や、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ二6章52節)という聖書の言葉を噛み締めるべき時である。こうした精神の言葉は時代を超えて人々の心に生きて働く力を持っており、戦車やミサイルなどによって破壊することはできない、まさに持続可能な力を持っているということも忘れるべきではない。

5.国連改革という隠れた動機

実はSDGsには国連改革につながる背景がある。直接的な前身はMDGs(Millennium Development Goals)である。これは21世紀の開始に際して、2000年から2015年までに達成するべき目標を8つにまとめたものであった。MDGsが主に発展途上国が取り組むべきゴールであるのに対して、SDGsは全ての国連加盟国に参加を求め、そのゴールも17に拡大されている。

さらにMDGsと時を同じくして発足したのが、UNGC(United Nations Global Compact)であった。これは21世紀の開始にあたって、当時の国連事務総長コフィ・アナンのリーダーシップによって発足したものであった。その特徴は国連加盟国どころか、多国籍企業やNGO、NPOなど民間の団体にも参加を求めたところにある。ビジネス・セクターを国連の活動に取り込むことによって、行き詰まりを見せていた国連を改革し活性化しようという隠れた動機があったものと思われる。

そのことは、UNGCの発表が1999年1月の世界経済フォーラム(ダボス会議)においてなされ、まず世界のビジネスリーダーに「顔のみえる世界市場」を作るための行動規範とその遵守をアピールしたことに現れている。実は国連総会での決議はその翌年の2000年に行われたことから、事務総長の暴走と批判されたこともあった。しかし、これも私見に過ぎないかもしれないが、当時興隆著しいビジネス倫理の運動を国連事務総長が高く評価し、国連改革の契機にしようとした意図が窺えるのである。

国連の目的である世界の平和と安全、貧困、飢餓などの課題は全世界の悲願ではあるが、国民国家を単位とする政治的連合体としての国連では有効な解決には至らず、民間企業の、特に経済主体としての企業の理解と協力なしには達成できないというアナン元国連事務総長の達見によって提出されたものである。実際にUNGCが発足して以来、その個別的なサブプログラムとして、PRI(Principles for Responsible Investment=責任投資原則)や私が関わってきたPRME(Principles for Responsible Management Education=責任経営教育原則)など、多くの企業経営や経営教育において社会的責任を意識した原則の採択が行われてきている。そしてMDGsの後継としてのSDGsには、そのプランの段階から、多くのビジネス・パーソンや経営学者が関わるようになったのである。日本においても、その前身のMDGsは盛り上がりを欠いていたのに対して、現在のSDGsの興隆は目を見張るものがある。それは多くのビジネスやコンサルタント、広告代理店等の支援があるからであり、ビジネスの力を借りるといかにアトラクティブでカラフル、しかも効果的な広報になるかは一目瞭然である。

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