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【特集:脳科学研究の最前線】
座談会:人類の可能性を開拓する総合知の未来

2022/03/07

脳はどこまでポテンシャルがあるか

南澤 僕の立場は、牛場さんよりもう1つマクロのレイヤーになるかなと思います。つまり、個々の人間の中で起きていることにも着目しつつ、人間同士のネットワークとして社会やコミュニティのレベルでどのようなことが起きているかに興味があるのです。

僕らのムーンショットでやろうとしていることは、今までの脳科学が前提としていた、脳が肉体の中に収まっている状態ではない境界条件の時に、脳の可塑性はどこまで発揮できるのかということです。

例えば人が自身の肉体とは別の体をもっていて、それが異なるジェンダーだった場合、認知行動システムそのものが変化したりアップデートされることが起きうるのか。あるいは、人がバーチャルな鳥の体をもった時、新しい体に脳がアダプトして飛べるようになるのを支援できるのか。先ほど脳が半分になっても機能が回復するという話がありましたが、逆に、脳というのは現在の1つの体に収まらないポテンシャルをもっている気がしています。まったく新しい境界条件をわれわれの脳に提示した時、脳がそこに対してどうアダプトしていくのか。

例えば遠く離れた別の人の意識や経験が流入してきたり、アバターによって本来の自分とは全然違う形状の体をもって、まったく異なる空間で活動するという可能性を考えると、実は人間の脳はそういうことも捉えられるポテンシャルをもっているのではないか。そこを探っていきたい。

それはSF的な話だけではなく、例えば、僕らのプロジェクトでは今、身体障害やALSにより寝たきりの状態にある患者さんがアバターを使って働いたり、学校に行ったり、社会活動をすることを支援しているのですが、生まれて初めて追いかけっこをしたとか、生まれて初めて手を振ったら振り返してくれたとか、彼らにとって全く新しいフロンティアがそこにあるのです。

そのように人間の脳はどこまでのポテンシャルがあるか。そこをどう理解していくかが、僕の立場での研究になるのかと思います。

柚﨑 それは目茶苦茶面白いですね。自分と他者との境界があやふやになるのはまさに統合失調症の病態であり、自分の声なのか思考なのか、外からの声なのかわからないという状態です。

ヒトだけではなくて、魚は側線で水の流れや音を感知しますが、自分が泳いだことによって発生するノイズを聞いていたら、もううるさくて泳いでいられない。だから、自分の体動に由来する成分は抑制する神経回路があるんですが、アバターなどで身体が拡張していくと、たぶんそういう神経回路も変わっていくんだろうなと思います。それはぜひ見てみたい。

南澤 触覚はもともと、魚の側線から発達したと言われていますね。触覚というのは自他境界の認知機能をもっているわけですが、認識を広げていく方向にももっていけると思っています。

柚﨑 究極的には、これもシナプスですね(笑)。

「人間」はどこに行くか

駒村 今のお話は非常に面白いですね。先ほど触れたムーンショットの目標1のテーマが、「2050年までに人間を脳、身体、時間、空間から解放する」ことを目指すというものなんですね。しかし、人間が脳、身体、時間、空間から解放されたら、実は人間が残らないのではないか(笑)。

逆に言うと、脳と身体と時間と空間に拘束されているのが人間なのではないか。解放されたら人間はどこに行ってしまうのか。人間原理自体が消失して宇宙の捉え方が変わってしまう可能性もあると思うんです。

そういった方向性に対する茫漠とした不安と、あるいはそっちへ跳躍してみたいという期待の両方あると思うのですが、このあたりについてはどうお考えですか。

南澤 僕のプロジェクトの1つのポリシーとして、自己主体性の担保というものを強く掲げているのです。今、アバターという概念の中には2つの流派がありそうで、1つは自分とまったく切り離された分身をつくって、自分の意識の外側でどんどん社会活動をし、働いてほしいという方向の研究。一方、僕らはそうではなく、あくまでも自分の意識の拡張をしていきたい。そして、その経験がフィードバックされてその人自身の成長に取り込めることを前提として、新しい身体をデザインしていきたいと考えています。

生産性の高い工場をイメージするなら、分身させてしまったほうが効率がいいんですね。自分の知らないところでアバターが100人分働いて、勝手に稼いでくる。これも1つの考え方ですが、そうすると、いずれ人間が不要になってしまうのではないかという危惧を感じます。

脳科学やアバターの技術によってよりよい人生経験を積み重ねて自分自身を広げていけるのか。ここをきちんと押さえておかないと、人間のコアが消失してしまう懸念があるので、自己の主体性や行為の主体感といったものを僕らは常に重視しています。

駒村 なるほど。今日お集まりいただいた方に、これはぜひ聞きたいと思っていることが1つあります。「人間を脳、身体、時間、空間から解放する」と申しましたが、その解放の契機を提供してきたものは、科学ではなく、やはり「死」だと思うんですね。死んでしまえば、これらから解放される。すると、今、行われている脳科学研究は「死」に代替する何かを提供する可能性があるような気がするんです。

これは、ロマンチックでは済まないリアリティもすでにもっていると思うのですが、医療現場にいる柚﨑さん、そのあたりはどのように捉えていらっしゃいますか。

柚﨑 面白いですね。けれど、あまり考えていないです(笑)。死というのは確かに身体条件からの解放だけれども、意識がなくなれば解放かどうかはもうわからない。身体・時間・空間から解放されるのならば、むしろ宗教体験に近いものなのかなとか思いました。お釈迦様の「宇宙即我」のように、自分と相手との境界がすべてなくなってしまうようなことでしょうか。

こういう領域になってくると、まさに倫理的な分野であり、それをやっていいのかという感じもします。死の直前には幽体離脱体験があるという話もある。今は一定の場所を刺激すれば、体から抜け出して自分を俯瞰して見るような体験ができるとも言われていて、個人的にはやってみたいなとも思うんですが(笑)。

皆川 まさに自己/他者の境界や自己主体感というのは、心理学の大きなトピックの1つです。人間が進化してきた1つの理由は、いろいろな人と協力しながら集団として助け合ってきたことです。常に人間は相手の心の状態を推しはかりながらコミュニケーションをとっていたお蔭で、いわゆる社会脳というものが発達してきたわけですね。

そこで、脳に対する技術で相手の感情がわかったり、相手の心を推測しなくて済むみたいな状態、本当に自己と他者の境界がなくなってしまうということがあるのなら、そういった社会脳がだんだんと劣化していくのではないかという気がします。

実際、子どもは自己主体感みたいなものが初めはないんですね。1歳半ぐらいまでに、だんだんと自己というレベルが完成してくる。それは外界とのコミュニケーションを通して獲得されるし、それにつれて脳も活動する場所があるんです。そう考えると、自己の分身であるアバターにしても、やはり南澤さん流の自己主体感をもっているもののほうがいいなと思いました。

人間らしさに寄り添う技術

牛場 南澤さんが先ほど話された2つの流派の話ですが、サイバネティック・ビーイングと掲げられている、「ビーイング」というところに、言われたような意味が込められているということですね。

南澤 そうですね。僕としてはそのつもりです。

牛場 僕もすごく同感です。僕もBMIで脳と機械を連携させているので、それはどこまで人間なのかみたいなことをよく聞かれるんですが、僕自身の研究は南澤さんの視点に近く、身体等が不自由な方が、自分らしい生き方ができる日々を支えたいというのが、自分の研究の原点なんですよね。

自分の祖父がある日、脳卒中になってしゃべれなくなった。言葉を発しようとすると、神経がミスワイヤリングして、全然違う言葉が出て失語になってしまう。それにイラついて怒ってしまうんです。だから本人も苦しいし、周りも大変です。

脳の半分がなくなっても、劇的に機能が回復するような人がいることを考えると、本来、人間にはそういう生物学的なポテンシャルがあるはずだし、そのことによって人間の尊厳を本来取り戻すことができるはずなのに、脳のことがわかっていなかったり、能力を上手く引き出してあげるテクノロジーがなかったりしてそれができない。

そういう状態のほうが、何か不当で不完全なのではないかと思うのです。もっと人間らしさに寄り添って、本来あるべき当たり前の状態の社会をつくるような形のテクノロジーを生み出せたらと思うのです。BMIも人間本位の生き方というものが中心にあってほしいと思います。

駒村 ELSI課題として、この問題はとても重要だと思いますね。

法学に限らず人文社会系の新しい技術に対する知的反応は、大体初めは警戒的です。何かまずいことが起きるんじゃないか、のっぴきならない事態になるんじゃないか、というある種の拒否反応が自動的に出てくるわけですね。

ただ、法学者を含めた社会科学者は、次に、この違和感とか警戒感は果たして正当化できるのかを考え出します。そうすると、意外に思い込みに過ぎなかったなとか、冷静にいい面を伸ばして、悪い面だけ排除すればいいじゃないか、という理路を立てることができる。

一方、技術の社会実装に対して、社会がそれにどう反応するのかと言えば、未知のものに対して過剰な警戒感が示されるのと同時に、それとは真逆に、過剰な期待感が増幅されることもある。法学者はおそらく両方を上手く制御し、過剰な警戒感も過剰な期待も上手い具合に着地させることが必要なのかなと思っています。

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