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【特集:脳科学研究の最前線】
田中謙二:脳科学から見る精神疾患へのアプローチの最前線

2022/03/07

  • 田中 謙二(たなか けんじ)

    慶應義塾大学医学部先端医科学研究所脳科学研究部門教授

精神疾患に科学で切り込む

皆さんは、こころの病気に科学が切り込む余地はあると思われますか? 配偶者を失い、激しい喪失感に苛まれる方が、食欲を無くし、仕事が手につかなくなっているとします。皆さんは、まず寄り添い、共に故人を偲び、そっとしておくことでしょう。ここには科学が切り込んで解決する余地があまりないように思われます。それでは質問を変えます。脳の病気に科学が切り込む余地はあると思われますか? 物忘れが進行しただけではなく、ケアマネージャーが訪れるたびにお金が無くなっていくと訴える母。認知症による精神症状は、脳に原因があるのだから、その原因である脳に介入することで解決するだろう。これが脳科学の視点にたった精神症状へのアプローチの1つと言えます。

ここで対比させたことの1つに、精神疾患をこころの病気と見るのか、脳の病気と見るのかという構えの問題があります。もう1つ、さりげなく言い換えていたことに気付いた方がいれば嬉しいのですが、精神疾患と精神症状を同じものと見るのか異なるものと見るのか、という別の構えの問題があります。精神疾患は病気としてのカテゴリーに入り、うつ病や認知症という病気のくくりになります。一方で精神症状は、ある一瞬における状態、すなわち今、気分が落ち込んでいるとか、今、物を盗られていると確信しているという状態を指します。本稿では、精神疾患を脳の疾患として扱う立場をとります。そして精神疾患と精神症状を区別せずに扱っていきます。

脳科学は、解剖学(脳がどのような細胞から成り立っているのか、それがどのように繋がっているのか)、生理学(脳にはどのような機能があるのか)、薬理学(薬が精神疾患に効くのはなぜか)というこれまで医学として扱われていた学問体系を中心に発展してきましたが、これだけでは脳を、こころを理解できるとは、とても思えないというのが読者の皆さんの多くが感じるところと思います。その通りで、心理学(こころの働きのあり方を考える学問)、社会学(人と人の繋がりを考える学問)、看護学(病む人をサポートする学問)などの、より人文社会学的な視点も必要ですし、人工知能、計算科学などの理工学の参入がこの10年で脳科学を飛躍的に進歩させていることも事実です。

現在、脳科学は、様々な学問分野を統合した1つの学問体系であると言い換えられます。それぞれの分野に最先端があるのですが、これから私の専門である医学的な視点から、最先端を述べたいと思います。

脳に対する解剖学的、生理学的な研究

現在、欧米、日本、中国で脳を解剖して徹底的に調べる国家プロジェクトが進行しています。脳には数百億個の細胞があると言われており、1つの細胞に1万以上の入力があると言われています。「言われている」では困るので、現在進んでいるのは、これを人類が持ちうる最高の技術で明らかにしようという野心的なプロジェクトです。

皆さんはガッカリすると思いますが、人の脳は、まだ我々人類にとっては大きすぎて複雑すぎるので、同じほ乳類であるマウスの脳で徹底的に調べています。言い換えると、人の脳を知るために、マウスの脳解剖を徹底的に研究しているのです。この10年でこれまでの教科書の知識を塗り替えるような発見がいくつもありました。

もう1つのブレークスルーは、解剖学に基づいた機能解析、いわゆる生理学的な解析の進歩です。解剖学は、脳の精密な地図を作るような作業ですが、生理学ではどの道路がガラガラで、どの道路が渋滞しているかといった、道路の使われ方(信号の流れ)を明らかにしていきます。今、この瞬間に、脳のどこに信号が流れているのかを観察することも高度な技術が必要になります。何らかの理由があって、その瞬間に、ある脳部位に信号が流れているのですが、そのなぜを明らかにできるような技術革新もありました。

私自身もマウスを実験動物として扱っており、日々、解剖学と生理学の研究を徹底的に行っています。国内外のプロジェクトで明らかになる新しい知見を取り込みつつ、自らの研究を高めています。私を含む脳科学研究者はマウス研究で研究者人生を終える気は毛頭無く、これをヒトの脳の理解に役立てるために使っています。

事実、マウスの脳(親指の爪程度の大きさ)は、ヒトの脳と基本的な構造と機能が同じなのです。マウスとヒトは全然違う動物なので、そんなバカな、と思われるかも知れませんが、マウスもヒトも、手足を使って移動し、口を使って食事をし、眠ります。性行為をして子孫をつくりますし、母は授乳をし、子を育てます。敵が近づいてくればそれを感知し、逃げます。生きるための基本的な行動はほとんど同じであり、その行動に指令を与える脳の基本的な機能もほとんど同じなのです。

死後脳の解剖でわかったこと

哲学や神学といったヒトのこころを扱う研究は、数千年の歴史があります。一方、脳の研究は、たかだか200年程度の歴史しかありません。黎明期の脳研究では脳がどうなっているのかを調べるため、ずばり亡くなった方の脳の解剖を行ってきました。脳卒中で回復された方に、麻痺を含めてさまざまな高次脳機能障害が起こる。例えば亡くなった後に、脳を解剖することで、視覚野という後頭葉に存在する脳領域がダメージをうけたために失明したのだということがわかります。

野口英世の功績の1つに、進行麻痺の原因を同定したことが挙げられます。進行麻痺は、梅毒感染からしばらく経過した後、例えば10年後などに躁状態になったり、粗暴になったりなどの精神症状が出現します。そして運動の障害が出て、荒廃状態になって死亡します。神経症状が出現してから2、3年で死に至るので大変恐れられていましたが、梅毒菌そのものが脳に感染していることを、膨大な数の死後脳の解剖から突き止めたのが野口英世でした。

しかし、脳に感染した梅毒菌を駆除する方法が無かったので、原因がわかったとしても当時は不治の病でした。日本では明治以降から精神病院が整備されますが、1950年より以前は、精神病院に入院する患者の半数を進行麻痺が占めていました。抗生物質ペニシリンの発見が第二次世界大戦前で、その普及が戦後です。梅毒菌はペニシリンに感受性が高いので、その普及が進んだ戦後から梅毒感染そのものも減り、かつ進行麻痺も激減しました。進行麻痺と呼ばれる多彩な神経症状を伴う進行性の脳疾患は、梅毒菌による感染症であり、ペニシリンで治療できることを発見したことは、脳研究の華々しい成果と言えます。

神経症状(体が動かない、感覚が失われる)や精神症状を持ったまま亡くなった方の脳を、亡くなった後に回収して、肉眼的に、また顕微鏡を用いて異常を調べることが徹底的に行われました。これら死後脳を解剖学的に調べる研究を神経病理学と呼ぶのですが、神経病理学によって、アルツハイマー病やパーキンソン病などの神経疾患の病態が次々に明らかにされていきました。

一方、精神疾患はどうだったかというと、いくら精神疾患患者の死後脳を顕微鏡で調べても、異常を見いだすことができませんでした。健常者の死後脳とほとんど差がなかったのです。このため、精神疾患患者の脳から脳の構造の異常を見いだそうというアプローチは廃れていきました。特に、ロボトミー手術の拡大適応の反省から精神外科(精神疾患治療のための脳外科手術)を一切行わないという方針が1975年に日本精神神経学会から出された後は、死後脳であっても入手が困難になってきました。

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