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【特集:脳科学研究の最前線】
巽 孝之:さまよえる電脳──サイバーパンク的想像力の系譜

2022/03/07

  • 巽 孝之(たつみ たかゆき)

    慶應義塾大学名誉教授、慶應義塾ニューヨーク学院長

1.脳髄帝国主義批判──夢野久作とアラン・ホブスン

かつて夢野久作は伝統的精神医学へ挑戦する1935年の一大奇書『ドグラ・マグラ』で脳髄帝国主義への徹底した批判を試み、最終的には「西欧的学術」に「日本民族の血」を対置させる物語を紡ぎ出した。同書で描かれる九州帝国大学精神科学教授・正木敬之博士が提唱したのは、狂人が精神病院に入るというよりは、だいたい地球全体で狂人でない者などいないとする「狂人の解放治療」理論であり、「脳髄は物を考える処に非ず」というテーゼを証明する「脳髄論」であり、そして人間の胎児というのは生まれ出るまでの間に古代から未来までの人類史をひととおり経験してしまうという、「心理遺伝」にもとづく「胎児の夢」理論である。彼は夢と主体を無縁のものとして、生物学的再解釈を加えている。「夢というものは、その夢の主人公になっている細胞自身にだけわかる気分や感じを象徴する形象、物体の記憶、幻覚、連想の群れを、理屈も筋もなしに組み合わせて、そうした気分の移り変わりを極度にハッキリと描きあらわすところの、細胞独特の芸術という事が出来るであろう」(三一書房版夢野久作全集第四巻『ドグラ・マグラ』140頁)。

それから半世紀以上を経た20世紀末、あたかも夢野の脳髄論を実証するかのように、アメリカ人精神分析医・神経科学者のアラン・ホブスンは、反フロイトの旗の下に、夢というのが決して主体の無意識下に抑圧された記憶の変貌した結果ではないこと、夢というのは睡眠時の脳が内部発生した信号を組み合わせて何とか辻褄のあった物語を創作しようとしているにすぎないことを指摘し、REM睡眠を開始/終了させる細胞群をも発見している。いいかえれば「夢を見るのは人間ではない、夢を見るのは脳の勝手」というわけだ。脳は人間内部に住まって共生中の人間ならざる芸術家、人間ならざる幻影魔術の使い手であり、それ自体が人間から独立した生物なのかもしれない。

2.ベリャーエフ『ドウェル教授の首』を読み直す

初めて脳科学が物語たりうることを意識したのは、ソ連SFの始祖の一人アレクサンドル・ベリャーエフが1925年にその初稿を雑誌に発表した長編小説『ドウェル教授の首』を読んだ時である。

舞台はパリ。いったん死んだ生物を甦らせるという先端的研究の師匠であったドウェル教授を出し抜くべく、弟子のケルン教授が喘息で亡くなったドウェル教授自身の首を再生させ、以後の研究の示唆を得ながら、恩師の業績を横取りしてしまう。しかしケルン教授の外科技術には確かなものがあり、彼は助手のマリー・ローランとともに、亡くなった元キャバレー歌手のブリーケの首に事故死したイタリア人歌手アンジェリカの肉体を接続して甦らせる。本来は別人同士だから、アンジェリカの肉体にブリーケの脳髄を適応させる作業が必要だったが、やがて前者の若さが後者をも若返らせ、首と身体はみごとに融合し、ブリーケは研究所を脱走、古巣のキャバレーで再び歌い始める。だが、この頃には助手のローランがこの仕事に疑問を抱き始めたので、ケルンは彼女の口を塞ごうとラヴィノ精神病院へ幽閉。折も折、歌うブリーケを見て異変に気づいたアンジェリカの元恋人アルマン・ラレーは、親友でありドウェル教授の息子であるアルトゥールに相談し、ブリーケが合成人間ではないかと疑い、いよいよケルン教授の悪事を暴く大冒険が始まるのだ。

筆者は本書を半世紀ほど前、中学の図書室にあった岩崎書店の「ベリャーエフ 少年空想科学小説選集」全6巻の第3巻(馬上義太郎訳、1968年)で読み、次に早川書房の「世界SF全集」全35巻の第8巻(袋一平訳、1969年)で読んだ。中学生時代に読んだ時も、そして21世紀の視点で読み直した現在も、本書の面白さは変わらない。枠組みだけ取ればメアリ・シェリーによるSFの起源『フランケンシュタイン』(1818年)に連なる一種のマッド・サイエンティストSFだが、昨今文科省より厳重注意が相次ぐ研究倫理や生命倫理の問題などを先取りしている点や、ブリーケの首に接続される相手が男性の死体になっていたかもしれない可能性が匂わされる点など、今日の性差倒錯的SFに先駆ける。そしてとりわけ、皮膚電極(ダーマトロード)を通して脳神経と電脳空間を接続する1980年代サイバーパンクの感覚をも彷彿とさせる。

3.サイバーパンクと性倒錯

サイバーパンクSFの旗手ウィリアム・ギブスンの第一長編『ニューロマンサー』(1984年)の面白さは、単にコンピュータ・ハッカー(物語内ではサイバースペース・カウボーイ)が一旦剥奪されてしまった電脳空間没入(ジャックイン)能力を回復するうちに巻き込まれていく冒険ばかりではない。電脳空間に入った主人公のケイスが眼窩埋め込み式ミラー・グラスをかけた女主人公モリー・ミリオンズの神経系を疑似体験して──すなわち「相乗り」して──現実を再認識する場面などは、ハイテクノロジーがいかに易々と性差脱構築しうるかの一例として注目されよう。

突然の衝撃とともに他人の肉体へ。マトリックスは消え、音と色の波──モリイは混みあった通りを進んでいた。(中略)ミラー・グラスはまったく太陽光線を遮らないようだ。内臓増幅器(アンプ)が自動的に補正するのだろうか。青い英数字が点滅して時を告げる。モリイの視野周縁の左下だ。見せびらかしてやがる。(中略)
「どんな感じだい、ケイス」
という声が聞こえ、モリイがそれを発するのも感じ取れた。モリイが片手をジャケットの内側に入れ、指先で、暖かい絹地の下の乳首を撫で回す。その感触に、ケイスは息を呑んだ。モリイは笑い声をあげる。(『ニューロマンサー』第4章[ハヤカワ文庫SF]、黒丸尚訳、96頁)

仮想現実内部で遊ぶ人々が何よりも自身の性差を偽装するところに最大の快楽を見出すケースは決して少なくない。日本人サイバーパンク作家・柾悟郎(まさき ごろう)の第一長編『ヴィーナス・シティ』(1992年)の1行目が「決めた。あたし今夜は性転換してやる」だったことも、サイバーパンク映画の決定版『マトリックス』3部作(1999年-2003年)を撮ったラリー&アンディ・ウォシャウスキー兄弟が、もともとは現実世界からマトリックス世界への移行を性転換で描きたいという構想を抱いていたものの、つまるところ、作中で描く代わりに、なんと3部作完成後に2人ともラナ&リリー・ウォシャウスキー姉妹へと性転換してしまったことも、この問題は無縁ではあるまい。

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