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【特集:脳科学研究の最前線】
巽 孝之:さまよえる電脳──サイバーパンク的想像力の系譜

2022/03/07

4.映画産業から擬験産業へ

こうした「相乗り」こそが未来のエンタテインメントの扉を開く。

サイバーパンクが前提とする電脳空間が今日のインターネットにほぼ等しく、ギブスンの後続作家ニール・スティーヴンスンが『スノウ・クラッシュ』(1992年)で活写したメタヴァースが旧フェイスブック(現在メタ)の開拓する新市場となった今日、1980年代のSF的装置はとうに実現し古びてしまったかのように見えるかもしれないが、通称「擬験(シムスティム)」と呼ばれるこのテクノロジーは、現在でも実現しておらず、ギブスン的発明として後世に残るだろう。というのも、ハリウッド映画産業に取って代わるべきものこそがこの擬験産業であり、自らの神経系を消費者に擬験させて莫大な収益を上げるのが、映画スターならぬ擬験スターたちであるからだ。

たとえば、あなたが国際線で海外出張するとしよう。そのフライトでは、現在なら機内に自由に見たい映画を選べるサービスが提供される。その映画に取って代わる未来のエンタテインメント・メディアこそは擬験なのだ。ギブスン第二長編『カウント・ゼロ』(1986年)の女主人公マルリイ・クルシホワは擬験界のトップ女優タリイ・アイシャムのソフトを選び、彼女の「陽灼けして伸びやかで、とてつもなく居心地良い・・・・・感覚中枢にはまりこんでいる」([ハヤカワ文庫SF]第23章、黒丸尚訳、320頁)。

あるいは、同時期発表のギブスン短編「冬のマーケット」(1986年、『クローム襲撃』[ハヤカワ文庫SF]所収、浅倉久志訳)。物語は、廃物芸術家ルービンが素材あさりでグランヴィル島へ行った際、それこそゴミのように拾ってきた外骨格(エクソスケルトン)の女リーゼを、編集者ケイシーが新たな素材とするところから始まる。先天的に身体障害の彼女は、外骨格(エクソスケルトン)とドラッグの助けがなくては一挙一動できない。外骨格(エクソスケルトン)、それは鉛筆のように細いポリカーボン性の補綴器官だが、筋電インターフェイスで脳に直結しており、その中にこそ優雅な歩き方から何から何までがプログラムされている。せがまれたあげくに一晩彼女を泊めたケイシーは視神経端子を彼女の外骨格(エクソスケルトン)の背面突起ソケットにさしこみ、感覚を直結して彼女の無意識が持つ凄まじいドラマを知る。「なまなましい突進、地獄の殺し屋の王様、無削除の本物が、日曜日から8つの方向に爆発し、貧窮と、愛の渇きと、無名の境遇が作り出す、悪臭ふんぷんとした空虚の中に飛び散った」(浅倉久志訳、215頁)。かくして彼はこの夢の断片に〈眠りの王たち〉と名づけ、脳ブレイン・マップ地図を準備の上、ツギハギして編集し再生可能にし、レコーディングののち発売にこぎつけ、それは300万セットを売り上げる大ヒットを飛ばす。ここではリーゼの脳神経もそれが醸し出す夢もすべて商品となり、高度資本主義市場に回収されるのである。

5.人工頭脳、人工知能、培養脳髄

サイバーパンクが露呈させたのは、古くベリャーエフや夢野久作の時代から、脳髄が何らかの精神的超越性を帯びているという西欧形而上学的前提を問い直す批判が続いており、それは脳神経と電脳空間の接続可能性によってますます普遍化の一途を辿っているという系譜である。その意味で、デリダ的ロゴス中心主義批判がインターネット勃興期の電脳唯物論と連動したのは、偶然ではない。

かつて1960年代ごろまでは、たとえばアーサー・C・クラークとスタンリー・キューブリックが共作した『2001年宇宙の旅』(1968年)において、木星へ向かう原子力宇宙船ディスカヴァリー号を統御するHAL9000のような巨大人工頭脳が描かれることが多かった。だがHAL9000は、ミッション達成のためもともと複雑すぎるコマンドを打ち込まれていたがために、結果的に発狂し乗組員へ危害を加え始める。事態収拾のためボーマン船長は断固たる態度に出てHAL9000の記憶中枢に入り込み、各種パネル内部のユニットを次々に引き抜き、巨大人工頭脳を機能停止に追い込む。この時、彼は心の中でこうつぶやく──「俺がしろうと脳外科医をやることになるとは思わなかった。──それも、木星の軌道のそとでロボトミーなんて」(第28章[ハヤカカワ文庫SF]、伊藤典夫訳、223頁)。この場面に関しては、浜野保樹が『キューブリック・ミステリー』(福武書店、1990年)において、アメリカ対抗文化作家ケン・キージーの傑作小説『カッコーの巣の上で』(1962年)が精神病院の暴れん坊マクマーフィが最終的に前頭葉白質切截手術(ロボトミー)を受け廃人にされてしまう結末との類推で分析したのは鋭い。

ロボトミー(またはロイコトミー)の技術はポルトガルの神経学者エガス・モニスによって1930年代より提唱され、彼はこの研究で1949年のノーベル生理学・医学賞を受賞したが、しかし精神障害を緩和するという名目により患者の人格と知性をなきものにする弊害が露呈し、60年代には米ソを代表とする多くの国で禁止されるようになった。したがって、『カッコーの巣の上で』が書かれた当時には、すでにこの手術は下火になっている。にもかかわらずキージーがそれを物語に組み込んだのは、彼がそこに一種の時代錯誤を犯しても主張したかったテーマを想定していたことを意味する。つまり精神病患者、あるいは精神病でなく単に暴力的なだけの人間に対してロボトミー手術を強行するアメリカ合衆国そのものが恐るべき狂気を抱えた巨大な精神病院であると断罪する対抗文化的批判が、それである。そもそも精神病院に精神病患者ならざる不都合な人間たちをも閉じ込める風潮は、すでに前掲ベリャーエフの『ドウェル教授の首』でも描かれていた。悪徳科学者と悪徳精神病院長が手を結ぶケースは決して少なくない。

けれども1980年代を迎え、マイクロチップが全盛となった時代には、『ニューロマンサー』が前提にするのも電脳ネットワークが世界中に、それも人々の肌の下にまで浸透した多国籍資本主義社会であって、物語の主人公になるのも、そのシステムをまんまと利用して一稼ぎしようとするアウトロー・テクノロジストたちだ。彼らにとっては、ドラッグでトリップする以上に、電脳空間へ没入(ジャックイン)することこそが快楽であり、何らかの犯罪の懲罰でその没入能力をいざ剥奪されることは「肉の牢獄」への堕落同然。サイバーパンクスにとっては、ロボトミー手術ならぬ闇医療を頼っても、電脳空間へ飛翔することこそが究極の楽園なのである。

したがって、1960年代までのSFでは巨大人工頭脳として人類を抱擁する母性的印象が強かったコンピュータも、80年代からは人間の等身大ないし限りなく透明な人工知能(AI)へと変容する。『ニューロマンサー』においても、ケイスに仕事を依頼してくるのが「冬寂(ウィンターミュート)」なるAIで、仕事の内容ときたら、リオに存在するもう一つのAI(ニューロマンサー)と合体するという夢を叶えるために一定の足枷を解くべく、何と自らに攻撃を仕掛けよというものだったのを想起しよう。狡知に長けたAIが、自身への危害すら高次の目的達成のための一段階と見なす展開は、人類がいくら抵抗しても、その動きさえ機械知性がさらに高次の目的のために回収し、人類文明の要たるキリスト教的犠牲=贖罪=救済システムに電脳文明が自ら生き延びるためにも有効なソフトウェアを見出す『マトリックス・レザレクションズ』(2021年)の物語学へと発展した。

サイバーパンク以後のSFが電脳文化を全地球的に浸透させたことは、逆にご本尊たる人間の脳髄自体の扱いにも変化をもたらす。1990年代より頭角を現したオーストラリア作家グレッグ・イーガンの傑作短編「適切な愛」(1991年)を見るとよい。そこでは、語り手のカーラが、列車事故で再起不能の重傷を負った夫クリスの身体をどうするかをめぐって、保険会社のアレンビーから驚くべき申し出を受ける。もしも夫をクローン利用による再生医療で甦らせたいなら2年ほどかかるが、その間、彼の脳髄を自らの子宮の中に収納し生物学的生命維持を行うのが最も安上がりだというのである。迷いに迷ったヒロインは結局その申し出を呑むが、はたして2年後、子宮内で保存した夫の脳髄を、成長し切ったクローンと組み合わせ新生活を開始したあとには、以前の夫婦愛とはまた違った情緒が生まれていた……。

かつて夢野久作の『ドグラ・マグラ』は脳髄帝国主義批判を行い「胎児の夢」理論を紡ぎ出したが、イーガンの「適切な愛」では夫の脳髄そのものがあたかも胎児のごとく妻の子宮で育まれるも、彼女自身はどうしてもそこに母性愛を感じることはできない。ここで興味深いのは、脳髄と別個に身体が形成され、最終的に両者を合成する技術が可能だとしたら、それこそ前掲ベリャーエフの『ドウェル教授の首』のごとく、脳髄とそれが収納される身体が必ずしも同一人物、同一性差の組み合わせである必要はなくなるということだ。ギブスン的擬験では擬験女優にアクセスするのが必ずしも女性でなくても可能だったことを思い起こそう。イーガン作品はハードSFによって脳髄と身体の分離再結合可能性を模索し、その過程で夫婦愛や母性愛の本質を問い直したが、その境地からはさらに将来、性同一性障害のみならず人種的少数派の諸問題をも解決を模索する新たな物語が生まれるだろう。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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