【特集:デジタル教育の未来】
座談会:デジタル教科書、オンライン授業からみる未来の教室
2021/11/05
教科の面白さを伝えるには
山上 去年の4月、休業になってしまいましたが、本当は小学校、中学校でプログラミングを教えることが始まるはずでした。それが6月の学校再開の時に、算数、国語、理科などの遅れをどうしようという話題が沸き上がっても、プログラミングの話はうやむやになった学校が多かったようです。
デジタルと紙のハイブリッドで「いいとこ取り」というのはまさにそうで、われわれ教師は何を目指しているかと言ったら、教科の面白さを伝えたいわけです。教科書の内容よりも面白さを伝えたいといつも思っています。
今、小学校の教科の専任制が出てきていますが大賛成です。高校時代に数学から逃げ回っていた教師が小学校で算数を教えて面白さを伝えられるのか。別に小学生に微分、積分を教えるわけではないけれど、この先こんなに面白いことが待っているんだよ、という迫り方がやはり違うと思うのです。デジタルのいいところ、紙のいいところを使って面白さに迫ることがわれわれの仕事かなと思います。そこは道具としてどちらも上手く使っていきたいと思います。
鹿毛 その通りですよね。こういうテクノロジーを使うと、生徒がワクワクして学んでくれるのではないかといった予想を持てる人でないと、結局、人に言われたことを実行するだけになってしまう可能性もある。
中野 教科の面白さを伝えられるかどうかは、とても本質的な話だと思います。特別支援教育では、子供たちの障害の種類や程度、発達段階や能力等が多様であるため、教科学習においても、個に応じた様々なカスタマイズが必要不可欠です。例えば、視覚障がいのある子供たちには、写真や絵の代わりに実物や剥製を触らせたり、知的障がいのある子供たちには、買い物や接客等の生活に根ざした具体的な活動や課題を設定して学ぶことができるようにする等の工夫をしています。
東京大学の梅津八三先生と一緒に盲ろう児の指導をされた志村太喜弥先生から、代数の問題を解くのが大好きだったという盲ろう児のお話を聞いたことがあります。この方は、学校を卒業した後も、問題を解くことを楽しまれたそうです。先生は問題を点字や指文字に変換するだけでなく、数学の問題を解く楽しさを伝えてくださった。それが卒業後も続いているのは素晴らしい話だと思います。
これらの取り組みが教育におけるカスタマイズの本質だと思います。したがって、テクノロジーを活用する際にも、単なる代替に使うのではなく、自己決定、自己選択する道具として使いこなせるような指導をしていくことが重要だと思います。
現在、特別支援教育では、基礎的環境整備や合理的配慮がキーワードになっています。テクノロジーが、基礎的環境整備や合理的配慮を実現する道具として活用されることで、公平な環境に少しでも実現できると良いと思います。
ソサエティー5.0は、テクノロジーを使うことでノーマライゼーションを実現する社会となるべきだと思っています。障がいのある人を含め、すべての人が公平に恩恵を受けられるような共生社会を、テクノロジーを活用して作っていく。デジタル教科書は、デジタルで実現する共生社会の第一歩だと認識しています。
鹿毛 面白さを体験することは本当に一生ものですよね。アインシュタインが学校で学んだことを全て忘れた後に残っているものこそ教育の成果だと言いましたが、まさにそれですよね。
人の可能性を広げる「デジタル化」へ
黒川 私は長年日本の教育を支えてきた、教科書と黒板とノートの三種の神器が、このデジタル化によって少し変わっていくことを期待しています。教科書は国税で作っていて、公教育の要と言われている。しかし、これを子供たち自身がいろいろと試行錯誤して、順序を入れ換えたり、交換したりできる素材として扱えるようになったら、これは面白いだろうな、という思いがあるのです。
自分はもともと編集者ですから、例えば国語だったら、卒業する時にこれまで学んできたことが編集され、構築されて1冊の本にできたらとても面白いと思い、そんな学びができたらいいなという願いがある。デジタル教科書は、そういう1歩にもなり得るのかなと思うところもあります。
もう1つ、昔から私は生活科や総合的な学習の時間が専門だったのですが、そこで学んだことは、「何からでも、どこからでも、誰からでも学べる」という態度を育てることでした。本からもデジタルからも学ぶ。先生や友だちの話からも学ぶ。もちろん自然や社会からも学ぶことができる。本来、学びとはそういうものだろうと思っています。その中でデジタル教科書・教材のあるべき活用をいつも意識していきたい。アクセシビリティという問題もそこにつながるのかなと思っています。
山上 私がデジタル教育について感じていることは、やっている人とやってない人の差をどう埋めるかということです。
例えば体育の先生が遅延再生するアプリで、自分の演技を遅延再生で見せながら説明するということは20年前からできることです。でも、効果は確実にあるのにやっている人とやってない人がいる。あの人はすごいからいいな、よい機材があっていいなで終わらないように、いろいろな人が関心を持って、これまでできなかったことができる可能性をいろいろな人に広げていきたいと思っています。
中野 私はデジタルが同じような人を作り出すツールになってほしくないと強く思っています。そうではなく、むしろ個性が強調できるツールになってほしいと思うし、それは子供だけでなく教員にとってもそうだと思うのです。
私が少し危惧しているのは、デジタル教科書の中に教材機能がたくさん入ってくると、それだけで教育がある種完結しまうようになり、個々の教員の個性が出てこなくなるのではということです。インタラクションの中で子供たちの学びが生まれてくると思うので、そういう意味で個性を強調するツールをぜひ作っていっていただきたい。
デジタル教材の中には、教員がいなくてもある一定レベルの学力が身に付くようなツールを目指して開発されているものもありますが、日本のデジタル教科書はそうなってほしくない。日本は教科書そのものがすごく工夫されていて、教員によって何通りもの教え方ができるように作られていると思います。これまで紙の教科書で工夫されてきたのと同じように、デジタルになっても多様な教え方ができるようなツールになるといいなと思っています。
鹿毛 今日のお話はとても刺激的で、新しい発見もありました。行き着く先は、教育のあり方、学びのあり方、あるいは人の成長のあり方をどう考えるかということなのだと思います。そうでなければ、デジタル教育というのは結局は絵に描いた餅だったり、あるいはお金を使うだけで、結局は混乱させて終わったりということになりかねないと思うのです。
便利な道具が入ってくることによって、その使い方というわれわれの知恵が問われることになる。その知恵というのは見識だと思うのです。教育とは何かとか、人が学ぶとはどういうことなのかという原理的な考え方です。われわれはこういう問題意識を共有しなければいけないですよね。
最後に中野さんがおっしゃったことはその通りだなと思いました。テクノロジーが個性や多様性を奪ってはいけない。実はそうなりかねないですよね。今までの教育が大事にしてきた通り、一人一人がよりよく育っていくためのプロセスとして学びがある。一人一人の学習者の個性が育まれていくのと同時に、教師もそこで自分の個性を発揮するような手立てとしてテクノロジーを使ったほうがいい。まさにデジタル教育の未来はそういうところに焦点化された先に開かれていくのではないかと思いました。
本日は大変有り難うございました。
(2021年9月9日、オンラインにより収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
2021年11月号
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