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【特集:デジタル教育の未来】
藤本和久:GIGAスクールの進行で可視化された「授業」の慣行

2021/11/05

  • 藤本 和久(ふじもと かずひさ)

    慶應義塾大学教職課程センター教授

「主体的・対話的で深い学び」とタブレット端末

政府が旗振り役となって進行するGIGAスクール構想は、公立の小中学校でもいまや浸透しつつあり、何らかのタブレット端末はまるで文房具の一部のように多くの授業で子どもたちの机上にある。このたびのデジタル教育の進行は、パンデミック禍のもとで急加速した点に留意しておく必要があるものの、むしろ「主体的・対話的で深い学び」が推進されるなかで起こっている点にこそ筆者は注目したい。

「主体的・対話的で深い学び」とは何か。あえて、これらのフレーズを逆転させてみると、このたびの教育課程・教育方法改革の切実感が見えてくる。主体的でなければ客体的・他律的・強制的、対話的でなければ独白的・一方向的あるいは「チャット」的、そして「深い」のでなければ「浅い」。強制的・一方向的で浅いものがもはや学びと呼びうるのか否かは不明ではあるが、旧来の教室空間で起こっていることは、学習指導要領や検定済教科書のシークエンスに闇雲に従い、教師の一方的講義かせいぜい教師と個々の子ども間の問答でのみ進行している授業が常態化していないかという切実な批判意識が伝わってくる。

とはいえ、教育行政側にわざわざ指摘されなくとも、学校現場でも「何とかしたい」という問題意識は常に持たれていたことでもあり、なかなかさまざまな要因により実現に至らなかったのが「主体的・対話的で深い学び」なのであろう。

他者との対話を通じて問題解決する過程で当事者性や個性が発揮されたり編み直されたりしながら教育内容への理解が深まっていくような学びが構想されるなかに、突如として、道具(教具)なのか、それ自体新たな教材なのか、それとも私たちに新たな視界を与える「眼鏡」となるものなのか、その多様な性格に学校現場は戸惑いながら、タブレット端末という象徴的なデバイスが持ち込まれたのが今の教室の状況である。

小論では、学校現場の教師たちが、「主体的・対話的で深い学び」に向けて試行錯誤しながら伝統的な講義型授業スタイルを乗り越えようとしているところに、タブレット端末が導入されたことにより、いったい何が起こっているのかを紹介したい。まさに、今の時期だからこそ可視化できることがあると考えている。それゆえに、小論では、新たな潮流にある良質な実践の展開事例を紹介するというより、これまで当たり前のようにとらえられていた授業(実践)の運営慣行やその背後にある評価観や子ども観などが今や問い直される事態となっている点を指摘することに力点をおきたい。

変容する授業のあり方

「対話」がキーワードとなるなかで、子どもたちの積極的な発話場面も称揚され、往々にしてそれは多様な意見や解法が列挙される場面に集中的に現れる。子どもたちは競って発言し、ネームプレートとともに自己の意見が板書されるのを期待する。列挙されるアイテムに対し吟味や整理の作業にこそ熱量をかけたいと願っている子どもは少ない。本当なら、それらを相対化し、概念を更新してくれるよう教師は望んでいるのだが、「いろいろな意見・やり方」が挙がる場面ではむしろ1人ひとりは自己執着・自己防衛的だ。子どもの思いとは裏腹に、教室には豊かで美しい板書が出来上がるのがこの授業の特徴であり、意見が出揃った(出尽くした)ところで、誰もが設けられた時間で板書を視写するのだ。

だが、タブレット端末においては、他者の意見を可視化するという作業に関しては「一瞬」、まさに秒単位で処理が終了する。数十分かけて、挙手まで求めて、皆に向かって発表する時間もじっくりかけて、黒板に列記していた子どもたちの意見・考え・思いは学習支援アプリにおいて一瞬でタブレット画面に一覧化されてしまう。なぜ私たちはこれまでこのような「場面」に時間をかけてきたのだろう。また、集団規模を個(自力解決)・小集団(意見集約)・クラス全体(列記・整理)と微妙に変えながら、何度も同じ「問い」の意見交流を子どもたちに重ねさせてきたのだろう。

もちろん「一瞬」でないアナログの時間的余裕のなかだからこそ自分の考えを整理したり追いつかせたり変容させたりするということが起こっていたのは紛れもない事実であるし、集団規模が拡張すれば、多様な少数意見に触れられる確率もあがる。また、このようなやりとりは仲間の表情や声色をともなって展開するゆえ、他者理解の厚みが増す時間にもなっていたことは争えない。だが、他者の意見の一覧化がこれだけ容易になり、次の(他の)作業・活動・思考に移れるようになった今、これまで、半ば慣習化する形で、授業の「肝」・「山場」に見えていた部分が大きく後退することは避けられない。

多様な意見が黒板(電子黒板やタブレット)に列記されたのは、多くの教科・単元の授業において、あくまでも「出発点」であって、ここから吟味を伴う対話が始まるはずなのだ。その準備をICT技術はしてくれるのであり、教室に集う者は、対話のしどころを過たずに済むようになるのかもしれない。

インターネットアクセスに感じる脅威

教室内での学びは「他者」がいる(居る・要る)ところにその意味がある。だが、タブレット上の作業や閲覧の時間が増すにつれて他者との視線や話線の交錯が減退し、他者が物理的にそばにいる意味の希薄化が進行するのは想像に難くない。近くの仲間のアイディアより、むしろ広いインターネット上の知見にアクセスしやすい環境にありながらも、実際には教師により多くの操作を人工的に抑制されているのが現状である。

もちろん通常のペアレンタルロック機能も効いているからもともとかなり使用に制限があると言わざるを得ない。インターネットへのアクセスに加え、オンライン上の子ども同士のコミュニケーション(ファイルのやり取りも含む)も管理者=教師の許可なくしては行えない。「あなたがどこにいつアクセスしたかは教育委員会が監視している」と釘を刺されている子どもたちもいて、私用端末を有しその扱いに慣れている子どもたちにとって、学校から貸与された端末はやはり学校で配布される資料集や「算数セット」と同等の代物に映っていることであろう。

このような教師たちの持つ(自然な)警戒感からくる抑制に教師・子ども・教材の伝統的な3者関係の揺らぎが生じているのが見て取れる。

授業中のインターネットへの自由なアクセスは直接的な脅威として教師には映るのかもしれない。もちろん有害サイトへのアクセス制限という意味もあるのだが、それ以上に、学校知の輪郭が曖昧になるところに危うさがある。

たとえば、宮沢賢治の『やまなし』(小学校6年生国語科)に取り組む教室で、1頁目に現れる「クラムボン」に子どもたちの自由な想像が膨らみ、それはいったい何なのだろうとの子どもたちのつぶやきから「本時」のクラスでの検討課題へと「めあて」化されていく展開はごく一般的だ。

だが、あれこれ知恵や解釈を出し合う隙に、ある少年が、「クラムボンの正体」とタブレットのブラウザーの検索窓に打ち込む。それだけで数多くのサイトが提案され、さまざまな見解が示される。「泡という説が結構有力らしいよ」と。このような授業展開上の問題は、これまでも学習塾などで先行学習している子どもたちがいることで「よくある例」ではあったが、ネットへのアクセスによって起こる同現象は、授業者からみて単に「無粋」に映る程度の意味をはるかに超えている。

まず教師の構成する知への信頼が学習者側において低下する可能性がある点は見逃せない。何も教師の提供する知の権威性を称揚したいのではない、むしろ子どもたちが何に知の権威を求めているのかという点とそれにより誘発され習慣化される学習態度をここでは問いたいのである。

今年(2021年)の春の観察においても、子どもたちの発話には、教科書・資料集、教師の板書、さらにはクラスの仲間の見解をも簡単に凌駕するような「ネットにこう書いてあったよ」という脱文脈的な提言で授業の流れが「決定的」となった教室が多くあった。問いと答えの時間的距離が短く、デジタルに回答を得られる時代に、わからなさや複雑さにじっくり向き合う耐性や探究心は減じてきている側面もうかがえる。

学校知の範囲内での「所与の問い」ならば、一定の「回答」は、それが正確か不正確かを問わず、サイバー上に見つからないことはない。教師の発問に応じて代行検索するだけの活動に堕してしまう可能性は大いにあるし、子どもの側からしてみれば、検索すればすぐに「見つかる」レベルの問いに教室でわざわざエネルギーを注ぐ経験はさぞかし退屈に違いない。

自由にインターネットにアクセスするなかで、そこにある膨大な量の情報から適切に選び出すことも大切なリテラシーだという、メディア・リテラシーを促す言説はもちろん正しいが、それが機能するのは元の問いが良質な場合に限られる。安定した正解のある静的な問いのもとでは、情報の適切な選択も吟味も起こる余地が元々ない。教室という場で他者と共同的に生み出される知への信頼、創造的な展開への期待などをどうすれば教師は現出していけるだろうか。

これまでも外部世界の知の存在や体系と教室内での知の構成との間にはそれなりに緊張感がなかったわけではないが、インターネットが「手元」に広がっていることでその脅威は比ではなくなっている。

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