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【特集:デジタル教育の未来】
藤本和久:GIGAスクールの進行で可視化された「授業」の慣行

2021/11/05

「対話」の閉鎖性の可視化

タブレットの機能は、子ども同士がリアルタイムで相互にコメントをやりとりしたり、作品を見せたい相手だけに開示し共有したりする機能も実装されている。だが、先述したように、多くの教師によりその機能は通常「オフ」にされている。教室内にて物理的に密に過ごす彼らにとって端末のディスプレイの秘匿性などもともと無いに等しい環境ではあるのだが、それでも教師の眼には見えないところで密かに何かがやりとりされることに違和感や警戒感が持たれているのは事実であろう(教師には見えない悪意のある書き込みで痛ましい事件が起こっているのも事実だ)。

これだけ他者との「対話」が叫ばれてはいるが、それはすべて教師の把握できる範囲内で起こるべきことであるとされていたことに驚かされる。これは、教師の評価観にも関わるのだが、教室内はもとより学びをめぐる子どもたちの諸事は(できる限り)すべて把握しておく必要があるという強固な信念を教師が有していることが背景にある。ここに、教師の子ども(あるいは子どもたち同士のコミュニケーション)への信頼が案外低かったことが可視化されてしまったともいえよう。授業中の知の深まりの過程で、教室という場で、それが物理的であってもタブレット上であっても、互いの気づきや困り感などが、固有名と宛先を伴って飛び交っている様相はむしろ健全なのではないだろうか。

「選択的」になるタブレット学習

これまで紙のワークシートを書いていた時と同じようにつぶやきを漏らしたり、他者の意見にコメントを仕向けたりしながら過ごしている様子はタブレット使用時もなんら変わっていない。ただ、タブレット上のワークシートに書き込むことは、ほぼ間違いなくその後「公開」されることが前提になっているため、彼らなりに相当推敲を重ねている姿が観察できるようになっている。つまり、タブレットに書き込むことはもはや自身の思考の整理の段階ではなく、それ自体衆目にさらされた緊張感を伴う作業に入っていることを意味している。個人の取り組みの時間にじっくりと自己内対話しにくい環境になっている点は注視しておく必要がある。

また、前に立つ教師からは視認できないのだが、相互の意見の閲覧時に、誰が誰の意見から見ようとしているか、誰の意見は軽視しているかなどは、彼らの画面が見える側に立つ授業観察者からはありありと読み取れる。ほとんどの意見は一瞥でスワイプされ、彼らの視線が止まるのはほんの数意見(だからこそ誰のどのような意見に引っかかっているのかは「背後からは」見えやすくなった)、つまりたとえ一覧化されていても黒板の板書を眺めるような無差別性はなく、きわめて「選択的に」他者の意見と向き合うようになっていることも見えてくる。彼らの眼に触れるものが極めて「指向性」を伴うものになってきていることが、果たして「主体的・対話的」で学びを深める環境になっているのかという問いは、いま実践的に正対しておかねばならない。

学びの個性化を促すデジタル機器との付き合いとは

タブレットなどのICT機器は所詮アナログ授業を補完するだけの道具(教具、時には文房具)と見るべきであるとの言説は依然有力である。だが、ノートや黒板の代替機能としての枠を遥かに凌駕する機能をすでに併せもちつつある「道具」であり、学びの経験に新たな方向性を付与しているのも事実だろう。タブレット端末は、知的探究や問題解決まで「サービス代行」してしまう能力を十分に有しているのであり、それを今は暴走しないようになんか塞ぎとめている状態である。

筆者はアナログの授業の価値を否定するつもりは全くなく、むしろ人々が物理的に近しい距離感で共通の課題に向き合ったり直接的な体験を通じて新たな知と出会ったりする状況は変わらず意義深いものであるとの確信を持っている。それゆえに、教師がついタブレットの機能制限に走るのもうなずける。

この「道具」の登場が、機能制限によりかえって子どもの知的探究や協同的探究を阻むことなく、これまでの教授活動を反省的にとらえる契機とは果たしてならないものだろうか。ここに例示してきたように、知に対する探究や理解への個性的ありかた(学びの個性化)に対するブレーキがかけられている点も見逃すことはできない。しかもそのブレーキは、これまでの物理的環境のなかでも実は存在しており、それは教師側の強固な信念にこそあった。

子どものそれぞれの思考が可視化・公開されることの意味、玉石混交の知が教師や仲間以上に誘惑してくるなかで、今ここに共にいる(あるいは座席位置上は離れていてもオンライン上でつながる)他者と学ぶことの意味、授業という場で生み出される、偶発性に依存する発見の意味、それらを問い直したいところである。「主体的・対話的で深い学び」というキーフレーズは、ICT(デジタル)機器を通じた学びの提唱といかにも相性が悪い、という先入観がなぜか学校現場にはある。後者の加速化は前者を押し潰すのではなく、むしろ前者を押し潰す主因になっている授業の慣行を炙り出しているのである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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