三田評論ONLINE

【特集:デジタル教育の未来】
座談会:デジタル教科書、オンライン授業からみる未来の教室

2021/11/05

「学びの場」の拡大

鹿毛 黒川さんはいかがですか。

黒川 紙とデジタル両方必要だと皆さん、言いますね。それは現場の率直なご意見です。ただ、昨年3月に一斉休校になりましたが、その時の問い合わせの対応はすごく大変でした。海外の日本人学校など世界中から教科書が届かない、指導書が届かない、デジタル教科書をすぐに売ってくれと。日本国内でもそういう地域もあり、そこで一気に教材等のデジタル化が進み、オンラインでやろうという流れが加速したことは事実です。

対面とオンラインのハイブリッドで授業を進めながら、次第にオンライン授業の中で先生と子供や子供同士など、いろいろな組み合わせの対話が生じるようになった事例も多く聞いています。マイクロソフトのTeamsとか、GoogleのClassroomなどのコミュニケーションツールを使ってやり取りを頻繁にやるようになった学校は、非常に議論が盛り上がるケースもあり、そこに可能性を見た先生が結構いたようです。

各自がデジタル教科書に書き込んだ内容を画像としてアップロードして共有すると、子供たちがコメント欄で、その意見に対するやり取りが発生していきます。例えば、国語だったら教材の読解のネタで議論が白熱するようなことが頻繁に起こった。皆、やり取りしたくて授業の時間がいくらあっても足りない。だから端末を持ち帰って家で続きができるという環境はすごく有り難かったという意見を数多く聞いています。

また、学びに困難を抱えた子供たちに関して言うと、デジタル教科書だととにかく自由に書き込めることが大きい。普段の授業で、この子は意見を持っていないのかなと思っていたら、すごく書き込みがあってびっくりしたという意見がありました。その先生は、今まで30人中上位10人ぐらいの子供たちで授業を回して、普通に授業ができていると錯覚していたのだけれど、デジタル教科書が入って30人が同時に動くようになったようだと言われていました。

鹿毛 デジタルによるいろいろな可能性が見えますね。学校だけで学ぶのではなくて、学校という空間の限定を超えて学びの場、環境がもっと広がってくるということなのでしょうね。

中野 「学びの場」の拡大はとても大切だと思います。同時に、情報活用能力を身に付けるためには、教科書だけを考えていたのでは不十分だという点も指摘したいと思います。つまり、教科書以外の補助教材や学習参考書などもデジタル化していく必要があるし、学習到達度の評価にもデジタルを導入する必要があると思います。

例えば、私の研究室で開発した教科書・教材閲覧アプリ「UDブラウザ」という障がいのある子供たちに好評なアプリがあります。このアプリ、最初は教科書閲覧用として作ったのですが、子供たちから、教科書だけでなく、授業中に配布される先生方の自作教材やテストでも使いたいという声が出てきました。そこで、自作教材も閲覧できるようにしたり、大学入学共通テストにも活用できるセキュリティ機能を搭載した試験モードを開発した経緯があります。このように、様々な空間や場面で活用することを通して、情報活用能力が育っていくのではないかと思います。

自己調整のスキルとカスタマイズの工夫

鹿毛 今、デジタル教育で光が当たっている部分は言語表現だと思うのです。しかし、例えば音楽や体育、美術などの身体表現などはテクノロジーだけでは教育できないところもある。デジタル思考ではないところで人間の文化が今まで持ってきたものだし、教育的にも人間形成上重要な領域で、これはまさに五感や肌感覚みたいなところにつながる大事な体験なのだと思うのです。その部分にあまり光が当たらなくなってしまっているのではないか。

さらに、デジタルに興味を持っている子はいいですが、どうでもいいやと思っている子が放ったらかしになる可能性があって、自己調整能力が低い子については、情報活用能力以前のところが僕は心配なのです。

もちろん理想的な部分については、私も共感するところばかりですが、一方で、そのあたりのことをどうしたらいいのでしょうか。

山上 僕は生徒に突き放す言い方をする冷たい教師なのですが、よく冗談半分で「『私アナログ人間やから』と言うのを聞いてどう思う?」と聞くことがあります。それを言って何を許されようと思っているのだろうと。やろうとしたけど苦手でできないと言っているのか、最初からやる気がないのか。「今の時代それではあかんぞ」とよく話します。

基本的に授業の中で全員に触らせるので、ハードルは下げているのですが、そこを乗り越えたらこんなに便利だよ、ということをやはり見せてあげないと、しんどい目だけをさせたらやはりつらいのでしょうね。ハードルが高くなくて結構便利なことが身に付くよ、と大げさに伝えることで「あ、面白い」という部分は伝えたいと思っています。

経済的な事情がある生徒は、もちろん把握しているので、そこは学校全体のフォローや県に相談する形で、気付いたところはサポートしているつもりです。

鹿毛 反転授業ということで先ほど山上さんの学校ではストリーミングのコンテンツもつくられていると言われていました。あれもやはり受ける側は自己調整のスキルが必要ですよね。

山上 ストリーミングの教材を作るという話が出た時に、提案をしてきた若い先生にお願いしたのは、1つは授業の1週間前には必ず上げてください、家で見られない子が放課後に学校で見ますから、ということです。

それと、映像は10分以内、8分ぐらいにしてくれと。必ず次の授業のさわりだけにして、それでわからないことを持ち寄ることにし、長いのはやめましょう、とお願いしました。

鹿毛 そこはやはり工夫ですよね。反転授業的にストリーミングを使うことは初等・中等教育でもかなり効果的と言われています。ただそれは前提があって、宿題として必ず見てくること。そうであれば、対面とのハイブリッドで効果を発揮するということですよね。だから最後まで注意が持続するという工夫が教材作りは問われますね。

中野 ストリーミングの話は、私自身も、大学の授業で使っていますし、苦労しているのでよく考えます。他の教員と比較してみると、コンテンツを制作する際にどんな工夫をしているかが重要で、教員によって格差が生じていると思います。

ストリーミングであっても、学生とのインタラクションを意識しないと失敗します。例えば、リアクションペーパーを通して学生たちの反応や理解度を確認し、次のストリーミングに反映させるという方法を使うと、好評ですね。でも、結局通常の対面の授業よりも何倍も時間を取られてしまうので、そこに労力をかけるか、かけないかで差が生じてしまう可能性があるため、注意が必要ですね。

鹿毛 カスタマイズをきめ細かにしていくのが生身のわれわれ教師の役割なのかもしれませんね。

山上 iPadにKahoot!というクイズ形式で学習するアプリがあります。オーストラリアに生徒を連れて行って複数の高校を訪問した時、授業の頭にアイスブレークとしてどの学校もそれを使っている。面白かったので日本に帰ったら使ってみようと思い、他の先生にも紹介しました。

ところが、日本の先生の真面目さというか、他人が作った教材をそのまま使うことに抵抗があるのですね。ほぼ同じものがあるのに自分なりにアレンジしたり、自分が作ったものも気恥ずかしいのか他人に提供しないのです。オーストラリアの先生は、誰が作ったかわからないものを皆使っている。デジタル化の場合、そういうものを割り切って使う必要があるのではないかと思います。

鹿毛 教師のメンタリティですね。でもそのこだわりが日本の先生の優秀さでもあります。

黒川 鹿毛先生が心配された、デジタルに偏り過ぎるという部分ですが、あえて僕はデジタルの仕事をしてみて思うのは、今の学校現場は相変わらずデジタルに傾くことは少ないのが現状だと思います。デジタル教育、オンライン教育の方法が教育現場であまりなじまないところがありますが、学習の内容・目的と、それをどういう方法で進めていくのか、をきちんと切り分けないといけないのかなと思います。

「紙か、デジタルか」と昔から言われていますが、「紙」に引っ掛けて神学論争はやめましょうといつも冗談交じりに言っています。紙が伝えるものと、パソコンなどの画像を通して伝えるものは、マクルーハンが「The medium is the message.」と言ったように、伝えているものが同じでも、伝達方法が異なると違うものが伝わってくる。ここを教育の中に上手く生かしていく必要があると思っています。

問われる新たな学習様式の確立

鹿毛 今日はいろいろとキーワードが出てきました。1つはカスタマイズです。これは多様な子供たち、障がいのあるなしを超えて一人一人に対応することで、デジタルかアナログかということも、そもそもあるのではなく、開発するものでもあるわけです。

もう1つはハイブリッドという言葉です。これは僕の理解だと「いいとこ取り」ということにつながるはずなのです。単に両方やるということではなく、それぞれの良さは何かを見極めた上で、それを使い分けたり、合わせたりすることだと思います。

そうするとそこには、黒川さんがおっしゃったような、教育の目的、内容、方法によって取捨選択するという判断が必要です。教師や関係者が教育の目的や内容を自覚しないままテクノロジーを使えば、結局は騒いで終わりで何も変わらないとなりかねない。

そもそも「学ぶ」ということはどういうことなのか。国のほうからは学習の個性化という話もありますが、学習論、あるいは教育論としてこの問題にどう向き合ったらいいのか。未来の教室、未来の教育をどう描くのか。今後10年ぐらいでデジタル教育の中での学びとどう向き合い、何を目指していくのかを考えてみたいのですが。

黒川 課題はたくさんあって、たとえて言うなら自転車に乗るには自転車がないと乗れないからと整備してきたわけですが、GIGAスクール構想のような政策は10年に1回のイベント的な政策なので、ちょっと皮肉っぽく言うと、次はないのです。

この後をどうするのかという大変な問題が待っているのですが、いまだに文科省から明確な答えが出ていない。自治体が自ら準備したり、各家庭の協力でBYOD(Bring Your Own Device)にしたりすることもそんなに簡単ではないわけです。そこに大きな地域格差が生まれる可能性があります。

それとは全く別の話になりますが、私は、パラダイムチェンジは3つの要因、すなわち技術と制度と文化が三位一体で変わることで大きく変革していくのではないかと思っています。「技術」は1人1台端末やクラウドの配信、ビッグデータの活用など。「制度」は教科書検定制度が変わったり、関連法が改正されたり、予算配分が変わったりすることです。

問題は「文化」です。コロナ以降、新たな生活様式と言われますが、同時に文化としての新たな学習様式の確立が問われています。現場では切実に、個別最適な学習とは何か、家庭学習やオンライン学習をどうすべきか、学習ツールをどう活用するのか、問われています。よく教育DXと言われますが、技術や制度だけではなく基盤にある文化が変わっていかないとどうにもならないので、意識改革が迫られていると感じています。

鹿毛 私はコロナで時計の針が逆戻りしたと実は思っているのです。Zoomで授業をすればいいということになり、双方向性ではなく、一方通行で、主体的な学びから逆行するようなことさえ起こっている。テクノロジーが遠隔を支えているということで皆、満足しているように見えるのです。

意識というか文化が変わらないことには、結局教師も子供たちも、あるいは教育研究者もテクノロジーに振り回されるだけで何も変わらない可能性もあると思います。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事