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【特集:3. 11から10年】
小さな地域から見た復興──石巻市大川地区の10年

2021/03/05

はまなすカフェと大川小学校

次の3年間、地域は被災した大川小学校校舎の存廃をめぐる議論に揺れた。4集落は災害危険区域(住めない場所)に指定されることが2013年2月に公表された。同年3月には石巻市立大川中学校が生徒数減少を理由に閉校となり、学齢期の子どものいる家庭の地域外への転出が進んだ。大川小学校は仮設住宅に近い石巻市立二俣小学校敷地内の仮設校舎で授業を続け、大川地区復興協議会が地域内での再建を目指して候補地探しや市への要請活動を行っていたが、2016年11月に石巻市が閉校を決めた。

大川小をめぐっては、子どもを失った父母らが石巻市に避難の経緯などを明らかにすることを求めていたが難航し、児童23人の遺族19人が2014年3月、市と県を相手取り訴訟を起こした。校舎存廃についても議論となった。集落ごとに行われた会合では、震災伝承のため保存すべきだという見方がある一方「悲しい思い出の残る校舎を見たくない」という声もあり、「解体」「保存」の意見はほぼ拮抗していた。2014年11月、石巻市職員が大川地区復興協議会に保存方針を打診した資料に記載された「全施設を残す」「一部施設を残す」「校舎を解体しAR(拡張現実)により映像を見る」という選択肢が週刊誌に「大川小学校テーマパーク化計画」と一部脚色を交えて報じられ、地域に動揺が起きた。大川小を卒業した若者が「学校を残してほしい」と訴え、新聞やテレビが大々的に報道した。

こうしたなか、漁師らは番屋建設の資金調達や県外支援者らとの交流活動を進めた。フランスのNPOと日本財団の支援を得て2014年10月に番屋が完成。翌年4月には漁師の妻らが週1回、地元食材をふるまう「はまなすカフェ」を始めた。尾崎の防潮堤については地盤沈下分だけ従前より高くする(高さ2.6m)方向で調整を進め、2015年末に石巻市が計画変更を決済した。長面の防潮堤については2015年5月、工事着工の説明会が開かれた。2013年6月に説明会が開かれてから2年間何もないまま着工を知らされた参加者からは「聞いていない」との声が上がった。席上、説明会で特に反対がなかったとして、市が計画を進めていたことが明らかになった。防潮堤ができると漁師の船寄場へのアクセスが悪くなるほか、震災後に御輿海上渡御に形を変えて行ってきた神社の祭礼にも支障がある。住民は反論したが、工事は6月に着工された。

集団移転と「ふるさとの記憶」

2016年から現在まで、被災現地は大規模インフラ工事により大きく姿を変えた。震災前から始まっていた人口減少や高齢化が加速度的に進み、集落の地縁互助組織「契約講」が釜谷、長面集落で解散や活動休止となるなど、地域社会の構造変化も顕在化した。大川地区の人々は集落単位で仮設住宅に入居し、仮設団地内の相互扶助関係も育っていたが、2017年秋から段階的に災害公営住宅への入居が始まることが決まった。大川小校舎については2016年3月、市長決裁によって保存が決まった。

こうしたなか「はまなすカフェ」に集まる人々から「地域の記憶を形に残したい」「ここに暮らしがあったことを 伝えたい」という希望が語られるようになった。2016年1月、三陸沿岸で地域の500分の1模型を制作している「『失われた街』模型復元プロジェクト」主宰者、槻橋修・神戸大学准教授が来訪し、長面浦海人の小川代表、釜谷の阿部良助区長らと面会した。住民有志や地域出身者が福島県いわき市で模型展を見学し、実行委員会を結成。4つの大学研究室と連携し、11月に釜谷・間垣地区、翌3月に長面・尾崎地区のワークショップを一週間ずつ開き、学生が住民からの聞き取りをもとに模型を作成した。

模型ワークショップはその後もお盆などに継続して行われ、2018年末には思い出の「つぶやき」を集めた記録集『大川地区ふるさとの記憶』(一般社団法人長面浦海人)が刊行された。渡邉英徳・首都大学東京准教授(当時、現・東京大学教授)の協力でデジタルアーカイブやARアプリも作成された。住民の思い出には、シジミ採りやソリ遊びなど豊かな自然との関係性や人とのつながりを反映したものや小学校での思い出など、あたたかなエピソードが多い。釜谷・間垣地区の模型は2017年11月以降、大川小近くのプレハブで展示され、大川小見学者を対象とする語り部ガイドなどにも利用されるようになった。

地域課題の変遷と「聞いていない」

大川地区の10年を振り返ると、「復興」という激流の中で次々起こる課題に、懸命に向き合う人々の姿が浮かび上がる。インフラ整備については、工事が進み防潮堤や橋が姿を現した2019年ごろから(計画を)「聞いていない」という声が再び聞かれるようになった。地域のつながりを保つ場や物語の共有という点では、高齢化や人口流出にともない祭礼や地縁組織の維持が難しくなっている。そうしたなか、人々は被災前の地域の模型を作り自然や人との関係性を語り継ぐ活動を始めた。整備が進む大川小震災遺構で何を語り継ぐかについては、今も議論が続いている。

インフラ整備について「聞いていない」という声が出る背景には、コミュニケーションの問題があると考えられる。復興の枠組みを決めるために石巻市は2011年、大川地区住民に対して4月、6月、9月の3回、住民意向調査を行った。しかし、住民の多くは記憶にない。覚えている人も「明日もわからない状況下で『水田を耕作したいですか』などと聞かれても答えようがなかった」と話す。

東日本大震災で被災した自治体のほとんどが2011年中に復興基本計画を策定している。「次年度から復興交付金の配分を受けるには年内の基本計画策定が必要だという流れがあった」と、ある石巻市職員は話す。12月議会で計画を可決するには9月議会に骨子を通す必要がある。そのため住民アンケートは6月に行われた。しかし6月時点で、被災した人々は避難所生活をしていた。行方不明者の捜索や火葬場の確保、深い悲しみや喪失感のなかで、復興の制度を理解して回答できる人はどれだけあっただろうか。市町村合併の影響を指摘する市職員もいる。大川地区は2005年に石巻市と広域合併した。住民に直接対応する河北総合支所の人員は震災当時、旧・河北町役場時代の半分近くに減っていた。人手が足りず、職員も被災している。復興のアウトラインは、そうした状況下で決まった。

翻訳・対話・ネットワーク

10年を経て、復興基本計画に盛り込まれた工事は完成に近づいている。しかし震災前から始まっていた人口減少は加速度的に進み、完成した橋を渡る人や復旧した農地を耕す人は減った。通い漁業は高齢者への負担が大きい。移転先の団地では、公園の草取りなどの共同作業が成立しづらくなっている。災害公営住宅(賃貸)に住む人の先行き不安もあるが、コロナ禍で話し合う機会も減っている。

復興事業は、一度決まると軌道修正することは難しい。だからこそ初期段階の合意形成に「そこに住む人」が積極的に関与することが重要と思われるが、大川地区の例に見るように、困難がある。説明会を開いても、被害が甚大であればあるほど参加への心的コストが大きい。地域外勤務者や漁師など生活時間帯の異なる人も参加しづらい。女性の参加が難しい現実もある。また、住民は誰もが土木や都市計画の専門知識を持っているわけではない。有効な議論のためには復興制度を読み解き、行政の用語を生活感覚に合う言葉に翻訳し対話を促す支援が必要であると考える。

復興まちづくり支援の枠組みとして、阪神・淡路大震災では「2段階方式」により、街区の土地区画整備事業では「まちづくり協議会」への専門家派遣が行われた。中越大震災では、県が創設した「新潟県中越大震災復興基金」を原資に、地域復興支援員が地域の状況に沿った支援を行う体制があった。東日本大震災においても復興基金はあるが自治体管理となり性質を変えている。大学研究室などによる地域支援もあるが、交通費など持続への課題は大きい。

こうしたなか尾崎集落では、漁師が防潮堤計画にいち早く反応し、専門家支援を得たことで対話が促進された。被災前の取り組みに根ざして地域の未来像を具体的に描けたことが助成金取得を可能にし、番屋建設やカフェ運営、模型プロジェクトといった地域再生活動につながった。被災前からの縁に加え、ボランティアに来た人が再訪することで人的ネットワークが厚みを増した。被災前の社会的関係性の蓄積が、地域のレジリエンスを増したと考えられる。

この10年間、被災地では一律基準に基づく防潮堤建設や、モデルルームのような「復興」イメージを成功例とみなしスピードを重視する「公民連携」施策、木に竹を接ぐような移住促進や六次産業化事業が推奨される傾向が見られた。しかし「被災地」というまちはなく、「被災者」という人もいない。そこに住む人すべてが居場所と役割をもつことのできる場の再建には、被災前の取り組みとともに、復興の制度を翻訳し、異なる立場の人の対話を促し、専門家や支援者、その土地に愛着をもつ人々が協力し合える仕組みを整えることが必要だと考える。

震災10年、大川地区では復興を支えた世代が70~80代となり、当時の10代が社会人になろうとしている。復興はこれからも続く。人々の歩みを見守り続けたい。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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