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【特集:ジェンダー・ギャップに立ち向かう】
明治5年、慶應義塾の女性たち

2020/04/06

女性の自立と慶應義塾衣服仕立局

芳蓮院のように活動的であろうが、錦のような(福澤の書簡からみる限りでは)人前に出ることを好まないタイプであろうが、身分が高かろうが、低かろうが、彼女たちには手に職のひとつもなく、夫や息子といった男性に依存して生きていくしかなかった。その男性たちとても、身分が通用しない新しい社会では、自ら生計の術を考えなければならない。旧大名家には多少の資産はあるが、夫を亡くした婉や釖はどうなるのか。福澤は姉たちの上京時に、「何か活計の道を得せしむる積り」と述べている。彼女たちが自分自身の力で、生活に困ることがないようにすることが必須であった。

しかし一体彼女たちに、何ができるのか。女性であっても、自活する方法を身に付けるべきだと考えたところで、ふさわしい職業がなければ始まらない。福澤は一念発起して、慶應義塾内に女性のための授産施設を作ることを考えた。それが慶應義塾衣服仕立局である。開業の際のパンフレットには、次のように書かれている。

およそ「人たる者」は経済的に自立すべきであるのに、特に都会の女性は柔弱に生い育ち、ひたすら男性に依存して生きていこうと考える。その悪弊の要因は、適切な職業がないからである。せめて慶應義塾の中だけでもそのような女性は作りたくない。仕立局は、このような女性が直面する現実から企画したことを述べる。

機械の購入など1000円(当時慶應義塾の入学金は3円)程の初期投資を行いながらも、約3カ月で丸善への譲渡を決めた。理由を述べた史料はないが、槙村正直京都府知事に原材料について相談した手紙も残っており、経営となると均一品質の原材料の入手や販路の確保、開拓など片手間ではできない。当初から、いずれ餅は餅屋に任せる予定であったのかもしれない。翌明治6年には、慶應義塾内の奥平家の居住区に「細工場」を建て、「おひめ様」も「下女」も「内職」をさせる積りと述べている。

実姉は結局「活計の道」を得ることはなかったが、義姉釖は産婆になった。東京府に提出した書類によると、シーボルトの娘、楠本稲やアメリカ人医師シモンズについて産科を学び、慶應義塾内で開業している。当時正確な医学知識をもった産婆が求められていたことや、稲やシモンズが福澤の知人であることから、これは彼の仲介によると想像される。

福澤諭吉のメッセージ

福澤諭吉は“男社会”にいる一方で、その目の前には女性の現実があり、「一身独立」から始まり個人が重視される社会を目指した彼は、見て見ぬふりをすることはできなかった。男女が対等であればこそ、男女で社会を支えていくことができる。そして問題解決のために実践的に活動した。理想を語るだけでなく、現実をいかに変えるかという視点で向き合ったからこそ、福澤の女性論は力を持った。福島四郎は福澤のような考えが広まれば、自身の姉の不幸な境遇も変わるかもしれないと考え、『婦女新聞』を創刊した。

しかしその後の国策は、福澤の構想からは遠のいていった。そして日本の現状は、まだ福澤の理想とする「男女共有寄合」になっているとは言えまい。まずは男女を問わず、身近な現実に目を向け変えようと努力すること、それが“福澤先生”からのメッセージといえよう。

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