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【福澤諭吉をめぐる人々】
渡辺重石丸

2026/02/13

『鶯栖園小草』より
  • 松岡 李奈(まつおか りな)

    慶應義塾福澤研究センター助教

明治34(1901)年2月3日、福澤諭吉死去に際し、明治を代表する国学者の1人である渡辺重石丸(わたなべいかりまろ)は「明治34年2月3日おもふ事ありてよめる長歌并(ならびに)短歌」と題し、2月3日が節分であることから、福澤を悪しき気をもつ鬼にたとえ、「鬼祓い」を寿く歌を詠んだ。

此鬼は いづくの鬼 大八洲 国のことごと 悪しき気を 此の名におふ 福澤の ふくといふ鬼 八百万 神の命や 神議(はか)り 議りたまひし をりしもあれ 月が中に 日をゑらび 大祓すとふ 此の三日の 夕日のくだち 撒く豆の よむともつきぬ ありし世の 罪をかぞへて 神叩き たたき罪なひ 西の海に けふをかぎり 疾(と)くいねと 神逐(やら)ふらし さし並(なみ)の となりつづき うちきくも 実(げ)にここちよや 里人の 口をし借りて 東西 みなみに北に 伊橋むる 神の声かも 鬼逐(やら)ひ鬼逐ひ

反歌にはさらに福澤への嫌悪が明明と現れている。

なま臭き風ふくざはの子を逐(わら)ふと神も大祓今日成すらしも
中津瀬にはやおり立ちて禊して月日の神をあふげ世の人

重石丸にとって福澤は西洋思想という悪しき習慣を日本に蔓延させた悪鬼であったのだろう。重石丸と福澤は明治初期以降、20年以上連絡をとっておらず、その恨みは根深く強いものであったようだ。重石丸は福澤と同じく中津出身の国学者で、増田宋太郎の師であり従兄弟であった。つまり、福澤とも縁戚関係となり、近隣に住んでいたが、その思想はかけ離れていた。

国学者の家に生まれて

重石丸は天保7(1836)年11月15日に、八幡古表神社の宮司である渡辺重蔭の次男として誕生した。通称を鐡次郎といい、号を鶯栖園とした。重石丸の祖父・渡辺重名(しげな)は本居宣長の高弟で、国学者として活躍した人物である。重名は藩主の側で和歌を教授し、藩校・進脩館(しんしゅうかん)でも教員となり、中津藩国学の礎を築いた。

重石丸が生まれたときには重名は没していたが、その蔵書や書に囲まれて育ち、重名と交流のあった学者たちの影響を受けて育った。また幼少期から父・重蔭や兄・重春から和歌の教授を受けており、国学の環境、素養に恵まれた少年であった。一方で非常に力が強く、体格に恵まれ、加えて癇癪持ちであったため、母が恐れることもあったという。重石丸は晩年まで身体強健であったが、祖父重名も長寿かつ壮健であったため、体格も祖父から受け継いだのかもしれない。

野本塾で学ぶ

重石丸8歳の時、手島物斎の私塾・誠求堂に通って漢籍を学び、右筆に従って手習も学んだ。嘉永5(1852)年からは、中津藩進脩館の教授でもあった野本真城(白巌)の私塾に入学した。重石丸がのちに懐古した「鶯栖園遺稿」では、小幡篤次郎や福澤と懇意であった上士・桑名豊山(ほうざん)、今泉郡司(今泉秀太郎父)が、野本塾の学友であったと述べている。重石丸によれば、野本は「気節の士」で、野本塾では天下のことを議論し、西洋窮理の説も学んだという。重石丸は「鶯栖園遺稿」に野本塾での思い出を多く書き残しており、野本が重石丸に与えた影響は大きいと考えられる。重石丸は自身の思想の転機として、野本から与えられた藤田東湖著『常陸帯』と『犯境録』(『夷匪犯境録』のことか)の2冊を読んだことを挙げている。特に『夷匪犯境録』を選んだことは、徳川斉昭に海防建白書の提出を試みたという野本の思想が色濃く現れているように感じられる。

重石丸はこうした書物や尊攘の情調に触発され、尊皇攘夷運動を志すようになったのか、安政3(1856)年より中津藩剣術師範であった冨永應助に弟子入りし剣術の道に進もうとしている。しかし交流のあった元田直に武事ではなく文教の道を勧められ、学者の道に戻ることとなった。

子弟を教育する

安政4年からは、近隣の子弟を集めて教育を行うようになった。増田宋太郎はこの頃に入門している。元治元(1864)年には家塾として道生館と命名し、より多くの門下生を受け入れた。著名な門下生には朝吹英二岩田茂穂がいる。道生館銘并十箴には敬神尊皇を主とすること、学を志す者は礼と儀を正し、言と語を慎み、長幼の序を持つこと、実学を講究して外侮をふせぐことが記された。

野本塾で『常陸帯』を読んだ頃からか、重石丸は藤田東湖に傾倒し、門下生にも藤田の著書を講義した。福澤が『福翁自伝』において「宋太郎の従兄弟に水戸学風の学者があって」と紹介したのは、おそらく重石丸のことであろうと推測される。のちに増田宋太郎をはじめとする道生館の門人の多くは、尊皇攘夷志士として活動し、明治10年の西南戦争において西郷隆盛に与するべく中津隊を結成した。

また重石丸は平田篤胤にも深く心服していた。重石丸は『霊能真柱』をはじめとする篤胤の著書を読んで感激し、道生館でも講義し、篤胤の学風が広く門下生に受け入れられていた。慶應3(1867)年には篤胤の養子であった平田鐡胤(かねたね)に書簡を送り、念願かなって篤胤の没後の門人となった。そして兄・重春の後押しもあって京都行きをかなえるのである。

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