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【福澤諭吉をめぐる人々】
朝吹英二

2016/06/03

  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭、福澤研究センター所員

明治3(1870)年秋、福澤諭吉は、中津にいる母順を東京に呼び寄せるため、甥の中上川(なかみがわ)彦次郎等を伴い中津へ向かった。その途中、大阪では、船が出るまでの数日間、福澤の従兄に当たる藤本箭山(せんざん)のもとに滞在することになった。その時、藤本の使用人として、炊事や使い走りを一切引き受け、まめまめしく働いていたのが朝吹英二である。

福澤の命を狙う

福澤の育った中津の城下町を流れる山国川の上流域に耶馬渓という景観の美しい渓谷がある。朝吹は、嘉永2(1849)年、その耶馬溪近くの宮園村に生まれた。青少年時代を郷里の漢学者のもとで学び、すっかり攘夷思想を身に付けた朝吹が、藤本の使用人として大阪に出てきたのは、福澤が滞在する前年のことであった。

福澤は、大阪に着くと、牛肉が食べたくなり、朝吹が大阪に一軒しかない肉屋で買った牛肉を料理することになった。当時はまだ、多くの日本人にとって牛肉を食べるなど考えられないことであった。朝吹が、肉を切るのも俎板を裏返し、それでも自分の手は穢れてしまったと憤慨していると、そうとは知らぬ福澤が朝吹にも牛肉を勧めてくる。藤本が、彼は牛肉が嫌いだからと執り成すと、福澤は、それなら玉子はどうかと更に勧める。仕方なく玉子なるものを口にすると、決して美味いものではない。一度印象を悪くすると、相手の一挙手一投足が癇に障る。朝吹の福澤への反感は募る一方となった。

折から朝吹の中津時代の友人で福澤とも再従兄弟の間柄に当たる増田宋太郎という男が来阪した。増田は、極端な攘夷思想を持ち、洋学者嫌いであったため、朝吹から福澤の動静を聞いて憤慨し、朝吹の手で福澤を片付けて欲しいと、暗殺の事を託したのだった。何も知らぬ福澤は、本屋の番頭を連れて、政府に取り締まりを訴えるべく『西洋事情』の偽版を買い集めるため大阪中を歩き回っていたが、その傍らで、藤本から護衛を命じられた朝吹は、福澤暗殺の機会を伺っていた。

そして、福澤が緒方洪庵夫人の家を訪ねた日のことである。福澤と夫人が懐かしい話を語り合っているうちに夜も更け、福澤が緒方邸を出た時には夜の10時か11時と、辺りは真っ暗でひっそりと静まり返っていた。朝吹が刀に手をかけ、いよいよ飛びかかろうとしたその瞬間、ドドドドドッと烈しい物音が鳴り響いた。近くの寄席の太鼓の音であった。朝吹の全身を包んでいた張りつめた気が緩み、拍子抜けしていると、寄席から大勢の客が出てきたので、この暗殺計画は、福澤の知らぬ間に失敗に終わった。

後年、朝吹の告白により、この件を知った福澤は、しかし『福翁自伝』にこれを記すことはなかった。福澤は、「およそ世の中にわが身にとって好かない、不愉快な、気味の悪い、恐ろしいものは、暗殺が第一番である。この味はねらわれた者よりほかにわかるまいと思う」(『福翁自伝』)と暗殺の恐怖を語り、自らが標的となった例として、この一件の後、中津で増田に狙われ危うく命拾いした出来事のみを紹介している。朝吹の暗殺未遂事件が明らかになったのは、福澤永眠後の明治41(1908)年、大阪での慶應義塾の同窓会で朝吹が自ら語ってからである。

福澤家の玄関番

福澤の命までも狙った攘夷思想の持ち主朝吹も、三日三晩福澤から開国進取の必要性を説かれると、一転、急激な洋学派へと鞍替えした。朝吹は、髷まげを切り落とし、父からもらった刀を売って旅費をつくり、中津から母たちを伴い戻ってきた福澤に従って上京した。

慶應義塾に入塾した朝吹は、福澤の家に住み込み、玄関番をした。玄関番といっても、単にお客の取り次ぎをするだけではなく、掃除や家族の雑用、使い走り、さらに福澤がアメリカ土産に買ってきた乳母車に福澤の娘である里さとや房ふさを乗せて子守りまでしていたという。福澤は、後年、「今まで食客を大勢置いたが、たいていは食わせ損で終わったものである。ただ朝吹と牛場卓蔵(うしばたくぞう)君(のちに衆議院議員、山陽鉄道支配人)だけは、この借金を払った方だ」と語ったといい、その働きぶりを讃えていた。

朝吹を見込んだ福澤は、自分の姪で中上川の妹に当たる澄(すみ)に朝吹との結婚を勧めた。当時、福澤邸から御茶ノ水の女学校に通っていた16歳の澄は、ほかのことは何でも叔父さんの言うことに従うが、朝吹さんに嫁ぐことだけは御免を被りたいと、首を縦に振らなかった。朝吹は9歳の時に天然痘に罹り、幸い一命は取り留めたものの、体中にできた膿のあとで、くぼみだらけのあばた顔になっていた。福澤は、朝吹には将来の見込みがある、それにあの顔ならば女性にもてる訳もないから家庭も泰平であると説得した。福澤の勧めに澄も漸く納得して、2人は福澤の媒酌で結婚した。ところで、福澤のこの見立ては、前者は確かに当たったが、後者は大きく外れた。朝吹は、男性にも女性にも大いにもてたのである。

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