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【福澤諭吉をめぐる人々】
朝吹英二

2016/06/03

朝吹の脳は薬簞笥

朝吹は、紡績、機械、建築といった自らが関わった仕事のみならず、趣味の茶の湯や骨董品の収集に至るまで、どんな分野でも、たちまち長年携わっていたかのように力を発揮した。無数の引き出しがあって、各々の引き出しを開ければその道の材料が止まることなく出てくる様を中上川は、「朝吹の脳みそは、昔の薬簞笥のようなものだ」と評していた。朝吹が頭の回転の速いことは、誰もが認めるところであった。同時にせっかちでおっちょこちょいの欠点も丸出しで、それが多くの人に愛される朝吹の人間味となっていた。

中上川の娘婿で、昭和初期に三井財閥を率いた池田成彬(せいひん)は、朝吹のことを「人間として附合って情誼の篤い人でしたね。又非常な苦労人で、我々のようにのっそり育った者じゃない。実に味わいのある人でした」(『故人今人』)と回顧しつつ、朝吹の人柄を伝えるエピソードも紹介している。ある日、朝吹は自分の眼鏡がないと言って秘書を怒鳴りつけ、秘書がさんざん探しても、どうしても見つからず、朝吹のもとに戻ると、何と眼鏡は主人の手の中にあった。秘書がそれを指摘すると、「なぜ早くそう言わないんだ」と言ったという。叱られた側も気に留めず、笑い話になる所は、愛嬌ある朝吹のなせる業であった。また別のある日、知人の家を訪ねた時、応接間に通された朝吹が、暑い時分で親しい間柄の家だからと裸になって待っていると、見知らぬ人が応対に現れた。これは家を間違えたと、朝吹は慌てて家を飛び出した。

福澤は、何か事が起きれば中上川に相談を持ち込んだ。中上川は、頭脳明晰、即断即決の男であるが、相手が福澤だろうがお構いなく、駄目なものは駄目と遠慮なく言ってのける。その点、朝吹は、相手の呼吸を読んで上手く話を持っていく。福澤は、朝吹を心置きなく相談できる相手として重宝がった。朝吹の本舞台は三井、三菱という実業界の中にあったが、交詢社の創立、明治会堂の建設といった福澤の大事な場面には必ず、朝吹の姿があった。

福澤と三菱の岩崎弥太郎、当時の大蔵卿大隈重信の間で、日本人の手で外国との貿易を進める会社が必要と意見が一致し、横浜に貿易商会という会社が設立されたとき、その支配人に白羽の矢が立ったのも朝吹であった。

他人のために労をいとわず

三菱の支配人から転身した朝吹は、生糸貿易で、国の権利と独立を守るため外国商人との戦いに挑んだ。その矢先、明治14年の政変で、生みの親の大隈が失脚し、政敵の薩長役人に銀行支援を止められた貿易商会は、会社を閉じざるを得なくなった。朝吹は、後に残った多額の借金を1人で引き受け、数年間の浪人生活を送ることになった。

「前代未聞の借金王」と呼ばれ、移動の車代にも事欠く身となっても、精力的に活動するのが朝吹であった。慶應義塾の後輩で、のちに「憲政の神様」と呼ばれた犬養毅、尾崎行雄の2人が金銭に困っているのを助けたのも、この時期であった。犬養が海外視察を希望した際、朝吹は、どこからか金銭を工面してきた。ところが、発布されたばかりの保安条例により、尾崎が東京からの退去を命じられたため、急遽、この大金は尾崎の洋行費に回された。「尾崎に横取りされ」た犬養は、生涯、欧米へ渡航する機会に恵まれなかった。

中上川が、三井銀行に入行し、その責任者として三井の近代化へ向けた大改革に着手した時、傘下の鐘ヶ淵紡績(かねがふちぼうせき)会社(鐘紡(かねぼう))は不振続きで、立て直しの推進役を必要としていた。中上川は、周囲の推薦を受けて、朝吹を鐘紡の責任者である専務取締役に起用した。朝吹は、自ら熱心に紡績を勉強し、頻繁に工場を回るとともに、従業員の処遇を良くすることで、鐘紡の経営を軌道に乗せた。さらに、抵当流れなどで三井傘下に入った工場群を束ねるために三井工業部が設立されると、朝吹は、その専務理事に就任した。この頃の三井の最高幹部は、三井銀行の中上川、三井物産の益田孝、鉱山の團琢磨(だんたくま)、それに工業部の朝吹の4人であった。中でも、中上川、益田の2人は、共に三井を財閥の筆頭に押し上げた実力者であり、立場の違いから、2人の間に険悪な空気が流れることも珍しくなかった。そして、「当時中上川・益田・両雄の間に在りて、よくその緩衝融和の任に当」たり、三井の分解を食い止めた「第一の功労者は朝吹英二その人であった」(『中上川彦次郎傳』)。

恩師福澤が永眠し、その後を追うように中上川もこの世を去った後、朝吹は、中上川が三井の改革に向けて採用した慶應義塾出身の若い人材のお守り役となって、彼らを育てていった。そして、その中から武藤山治(むとうさんじ)(鐘紡社長)、和田豊治(とよじ)(富士紡績社長)、藤原銀次郎(王子製紙社長)といった日本を代表する経営者たちが生まれている。

朝吹の追懐録の中で、武藤山治は、「吾々は氏(朝吹)の伝記より幾多の学ぶべきことがあるが、そのうちもっとも学ばねばならぬことは、氏の胸底に強く宿っておった他人のために労をいとわず費用を惜しまずして尽くされたその温かい同情心である」と朝吹を評している。

左から朝吹、福澤、中上川(明治7[1874]年)(福澤研究センター蔵)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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