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【福澤諭吉をめぐる人々】
増田宋太郎

2025/04/10

  • 松岡 李奈(まつおか りな)

    慶應義塾福澤研究センター助教

福澤諭吉の又従兄弟である増田宋太郎(ますだそうたろう)は、尊皇攘夷志士、自由民権運動家、西南戦争党薩諸隊・中津隊の隊長を経験した、太く短い人生を生きた青年である。戦前は、増田の皇国主義的な主張と西郷に殉じた行動から、福澤よりも人気があったといい、数々の文学作品にも登場した。特に著名なものは司馬遼太郎『翔ぶが如く』であろう。『翔ぶが如く』では、敗戦の色が濃くなってきた中で、西郷が各地から集まってきた青年たちに対して帰郷を勧めた際に、西郷軍に留まると決めた増田の言葉を取り上げている。

増田は西郷の魅力について、「かの人はまことに妙である。1日かの人に接すれば1日の愛生ず。3日かの人に接すれば3日の愛生ず。しかれども予は接するの日をかさね、もはや去るべくもあらず。いまは善悪を越えて、この上はかの人と死生を共にするほかない」と落涙しながら述べたといい、情感豊かな増田の姿が描かれている。

増田と福澤の関係性は深く、『福翁自伝』(以後『自伝』)中でも、増田は尊皇攘夷思想をもち福澤の命を狙う青年として印象深く語られている。暗殺失敗後、増田は洋学校・中津市学校に勤務し、慶應義塾にも入学するなど福澤との交流は続いた。こうした洋学の受容や、自由民権運動への転身には福澤の影響があったと推測されるが、増田の思想について詳細を追うことは困難である。それは、増田に関する一次資料が少なく、増田没後に顕彰を目的に作成された伝記資料が中心であるという資料的制限と、増田の活動が多方面に及んでおり、真意を汲み取ることが難しいためである。今回は『自伝』をはじめ、増田周囲の人物から語られる、「増田宋太郎」の紹介を試みたい。

増田宗太郎錦絵(國學院大学 栃木学園所蔵・中津市歴史博物館寄託)

宋さんと呼ぶ、親しい親戚の子?

嘉永2(1849)年、増田宋太郎は中津藩下級武士・増田久行の長男として誕生した。幼名は久米丸といい、自筆書簡では「来目丸」「来目まろ」と記しているものがあるため、読みは「くめまろ」であったと推測される。父・久行は福澤諭吉の母・順の従兄弟であり、母は国学者・渡辺重名(しげな)の娘であった。性格は沈勇かつ明決、白い肌をもつ女性的な風貌であったという。西南戦争時に発布された「人相書」では、色白で面長、眼や眉がはっきりした顔立ちで、「姿ヤサシキ方」という特徴が記されている。

重名の孫、渡辺重石丸(いかりまろ)が幕末から明治初期を回想した「鶯栖園遺稿」では、福澤に関する記述に加えて、母・順についても増田が書簡等で報告しており、家族ぐるみで交流していたことがわかる。また、『自伝』では、「私より13、4歳も下ですから、私はこれを子供のように思い、かつ住居の家も近所で朝夕往来して交際は前年のとおり、宋さん宋さんといって親しく」していたと回想し、福澤は年の離れた又従兄弟を可愛がっていた。しかし、増田自身は福澤に対して憎悪の目を向けており、のちに福澤の暗殺を計画するほどであった。そして、それは増田の母方の家系である、渡辺家が関係していた。

道生館の門下生たち

渡辺家は古表八幡宮の神官の家系で、第34世・渡辺重名は荒木田久老(あらきだひさおゆ)や本居宣長に師事した国学者であった。重名の孫である渡辺重春・重石丸(増田とは従兄弟関係)も、中津藩藩校・進脩館や、私塾・道生館で、国学や和歌を教授した国学者であった。渡辺家は、福澤家や増田家からほど近い桜町に位置していて、増田は彼らの影響を強く受けて育った。『自伝』では増田の環境について、「宋太郎の従兄に水戸学風の学者」がいて、増田は彼らを先生にしたから「なかなかエライ」と評し、また増田家は堅固な家風で「封建の武家としては一点も恥ずるところはない」ものであったと紹介している。

門閥による身分秩序の厳しい中津藩では、上士下士間で軋轢が生じ、下士が不当な扱いを受けることがあった。そのため、下士が上士を避けて藩校の入学を敬遠する風潮があり、多くの下士が私塾で学んでいたという。その中でも道生館は唯一の国学塾で、多くの下士が入門した。増田のほかにも、道生館では朝吹英二や獅子文六の父・岩田茂穂、のちに中津隊となる下士たちが学んだ。重石丸は平田篤胤の著書に感銘を受けて篤胤没後の門人となった人物で、道生館の門人たちは、重石丸が唱える平田国学の影響を受けて尊皇攘夷思想を抱くようになっていた。こうして中津藩の尊皇攘夷志士たちは、福澤の命を狙って暗殺を企てたのである。

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