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【福澤諭吉をめぐる人々】
岩田茂穂

2024/04/19

  • 結城 大佑(ゆうき だいすけ)

    慶應義塾普通部教諭

福澤が、中津に帰ってくる。明治3(1870)年11月、この帰省の報せに熱い血を滾らせたのは、中津の若き尊王攘夷家たちだった。幕末に3度洋行し、著書を通じて西洋の思想を盛んに紹介していた福澤諭吉は、彼らにとって許しがたい悪人であった。首謀者は、福澤の再従弟(またいとこ)・増田宋太郎。いよいよ始末すると決めた夜、福澤宅を窺う暗殺団に加わっていたうちの1人が、岩田茂穂(いわたしげほ)である。

失敗

岩田は嘉永5(1852)年、中津藩の下級武士の家に生まれた。長じて渡辺重石丸(いかりまろ)の道生館に入り、増田らと共に国学を学ぶ。

国学は、古典の研究により、日本固有の精神(古道)を明らかにしようとするものである。その関心は神道にも及び、現今の神道には、外来の儒教・仏教の思想が混淆していると批判。それらを除き、本来の純粋な神道に復古すべきとした。具体的には、八百万(やおよろず)の神々の中でも天照大神を特に仰ぎ、その子孫たる天皇を万民の中心的存在に据え、天皇と万民が共に繁栄することを目指すのが「古道」であるとした。復古神道と呼ばれるこの考えは、国学における1つの「学説」だったものの、化政期に登場した平田篤胤は「現実の行動規範」だと主張する。岩田が師事した渡辺は、この平田の学統に連なる国学者で、古道の実践に向かう姿勢は、むしろ平田よりも強かったそうだ。

年号が明治に変わり、王政復古を唱える新政府が成立しても、渡辺のような国学者は、必ずしも満足していなかった。一部の有力者が天皇を利用して権力を独占しているように映ったからだ。その奸賊を天皇の側から追放し、彼らの拠り所となる西洋思想も排除する。増田や岩田といった渡辺門下生を駆り立てたのは、こうした尊王攘夷思想であった。

ただ、暗殺は失敗した。その状況は、『福翁自伝』に詳しい。福澤宅には、福澤が四書の素読を教わった服部五郎兵衛が訪問中で、踏み込めなかったという。さらに暗殺団は、帰京する福澤が、一緒に三田に連れ帰る母らと共に港のある宇島の船宿にいることを知り、再び斬り込もうとした。しかし、先駆けを誰にするか悶着している間に夜が明けてしまい、果たせなかった。

挫折

さて、明治5(1872)年5月の『慶應義塾入社帳』には、「小倉県士族・岩田茂穂」の名が見える(中津は明治4年11月から9年4月まで小倉県)。旧敵の学塾に入社した経緯は分からない。ただ、復古神道を基盤とする思想は、まだ残っていたようである。

王政復古を建前として発足した新政府では、当初、復古神道を信奉する勢力が強かった。彼らは、神仏分離令や、神道による国民教化を掲げる大教宣布の詔において、中心的な役割を果たす。

明治5年3月には、国民教化を管轄する教部省を設置。さらに各地の神官などを教導職に任命し、教化活動を末端で担う実務者とした。9月には、教導職の研修道場として、東京に大教院を設置している。

こうして中央集権的な教化体制が整備される中で、岩田は同年11月、増田と共に、「教則ノ事ヲ議ス」と題する建白書を提出している。ここで彼らは教化活動を、学制(同年8月)で設置が決まった小学校・中学校でも行うように、訴えている。

また明治6年には、「神祇官ヲ再興シ崇神ノ大義ヲ天下ニ示シ外教ヲ防カン事ヲ議ス」とする建白書に、増田と共に名を連ねている。近頃、天皇を廃して大統領制を導入すべきとか、キリスト教の禁を解くべきとかいった「怪談妖説」が多い。こうした「衰頽」を挽回するためには、教化活動の推進が急務である。しかし、教部省や「凡庸ノ神官」にそれを託すのでは足りない。「復ビ神祇官ヲ興」して、神祇官が「一切ノ事務ヲ統轄」すべきだと主張する。

神祇官は、神々の祭祀を行う官庁として明治4年7月まで設置されており、制度上は、一般政務を担当する太政官の上位にあった。岩田たちは、教部省の弱さを嘆き、より強い権限に基づく教化活動を願ったのである。

このように、岩田の思想的基盤は、変わっていなかった。その学風と異なることから、早くに義塾を離れたのかもしれない。というのも、明治6年の建白書で岩田の肩書を見ると、「小倉県士族貫前神社宮司」とある。同年10月には、群馬県富岡の貫前神社に、管内の教導職について調査するよう大教院から依頼があり、そこに岩田の名が見える。同史料では、宮司に加えて「権大講義」の役にあったことも分かり、これは教導職の等級の1つである。教化活動が思うように進まない現状を憂いて、自ら地方に赴き、その任にあたったと考えられる。

ところが、新政府の教化政策は挫折した。教部省の最大の後ろ盾だった西郷隆盛が明治6年の政変で下野すると、新政府では宗教による国民教化に批判的な開明派が台頭。この結果、明治8年に大教院は廃止され、その2年後には教部省も廃止されている。

こうした変動に、岩田は何を感じたのだろうか。その記録は残っていないが、行動を共にしてきた増田は、明治9年、義塾に入社している。岩田も改めて福澤の門を叩いたのだろうか。

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