三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
岩田茂穂

2024/04/19

挑戦

明治10(1877)年11月3日。天長節の横浜の空は、午後3時から夜12時にかけて、300発の花火に彩られた。福澤もこれを見物し、「唯壮大の観に驚くのみ」と記している(「豊橋煙火目録序」)。

この花火大会を企画したのは、この年、横浜で西洋花火の製造所を開いていた平山甚太。福澤門下生・中村道太(横浜正金銀行初代頭取)の弟である。そして、平山と共に製造所を立ち上げたのが岩田だった。その花火は、横浜居留地の外国人にも好評で、海外からの注文も入るようになった。

こうして新たな道を歩み始めた岩田は、翌年、中津へ帰郷している。福澤と親交のあった鈴木閒雲(かんうん)や山口広江と共に養蚕団体の結成を図り、士族を勧誘して株式を募集する。鈴木は、中津士族の互助組織・天保義社の社長。鈴木は、中津士族の秩禄公債を活用して日田新道を建設しようとしていた人物である。

この岩田の行動には、福澤の影響が窺える。福澤は、士族が新時代の牽引役となることを早くから望んでおり、彼らに期待していた具体的な行動の1つが、新事業への投資であった。他方では、開港以来、日本の輸出基幹産業となっていた養蚕製糸業の育成を重視していた。中津の士族に顔が利く鈴木や山口との連携を指示したのも、福澤だろう。結果として、明治12年12月、中津に製糸会社末広会社が設立された。1株を10円とし、士族中より460株、天保義社から150株を調達している。

一方、同月8日、東京では福澤を訪ねる者があった。富岡製糸場長・速水堅曹である。当時、生糸輸出商社の設立を目指していた。この面会について、福澤側の記録はない。

そこで速水の記録(『履歴抜萃』)を辿ると、「岩田ト懇意ノ始ナリ」(明治13年3月条)、「岩田茂聡(ママ)米国行ノ事ヲ星野・新井ト共ニ決シ、本日富岡ニ来テ予ニ問フ、予情実ヲ察シテ之ヲ許ス、小幡福澤同意ナリト云」(同年6月条)とある。

岩田が日本を発ったのは、明治13年8月。『交詢雑誌』には、「生糸会社佐藤組役員として来ル十九日米国紐育府へ赴くよし」との記事がある。

佐藤組の代表は、ニューヨークで初めて日本製品の輸入販売店を開いた佐藤百太郎。速水は、明治12年1月から佐藤組の「助言人」に就任。その関わりもあってか、速水はこの佐藤組に現地での販売を委託するつもりだった。岩田は、言うなれば、関連企業への出向社員である。明治13年12月には、速水の輸出商社が、横浜同伸会社として正式に発足する。

異国での挑戦が始まった中で、勉強の必要性を感じたのだろうか。岩田は明治14年6月頃に、同州ポーキプシーにあった商業学校・イーストマンカレッジに入学する。短期間にアメリカの商習慣を学べるのが評判で、明治9年には、福澤門下生・森村豊も卒業している。森村は、すでにニューヨークで日本雑貨の輸入販売店を開いていた。入学は、その“先輩”の縁によるものだったかもしれない。

2カ月後、佐藤組の経営悪化を受けて、生糸販売事業は同伸会社自身が担うことになった。同社はニューヨーク支店を開設し、岩田もその社員に名を連ねている。翌年には、中津の生糸が、同伸会社によって当地で販売された。

その後の岩田の活躍を示す資料は少ないが、日米を何度か往復している。かつて尊王攘夷を信奉した男は、こうして、世界と渡り合う国際ビジネスマンとなった。

YOKOHAMA

明治19(1886)年、岩田は横浜で独立。絹物の輸出や外国人向けの小売を行なう個人商社を経営して、明治35年、50歳で亡くなった。横浜で過ごした日々については、息子・獅子文六(慶應義塾に学び文化勲章を受章した小説家)の著作『父の乳』等で窺い知ることができる。

弁天通での開業後、外国人居留地へ移転。居留地は排他的な空間で、日本人が店を出そうとすると、外国人からの妨害があったという。岩田がその居留地に出店できたのは異例のことで、外国人からも信用があったことを物語る。

店の商号は「S.EWATA」であった。岩田のイにEの字を用いたのは、Iの字だと英米人は「アイワタ」と読むからで、アメリカにいる間に、そういう綴りに変えたという。2階建ての洋館の1階には、ハンカチ、ブラウス、絵日傘のような絹製品が、どれも外国人好みの東洋的なデザインで彩られ、所狭しと並べられていた。2階には、刺繍の壁掛けや屏風といった調度品を陳列。月額100円の家賃を支払えるほど、商売は順調だった。

岩田商店のロゴ Grand Hotel Ltd.(Yokohama) ほか『Guide book for Yokohama and immediate vicinity / by N. Amenomori』,Grand Hotel,[1898?] (国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2024-03-13))より

私生活では、明治18年に、平山甚太の娘・麻二(戸籍上は片仮名でアサシ)と結婚。媒酌人は小幡篤次郎だった。明治26年に生まれたのが獅子文六で、本名を豊雄と言う。その名付け親も小幡で、豊の字は「豊前中津」から取られた。

獅子文六もたびたび言及しているように、岩田の人生は、福澤や義塾と縁深いものとなった。明治34年、福澤が亡くなった際には、病を押して横浜から葬儀に参列。その帰途、体調が急変し、死の床に臥せることになる。そのような状態でも参列を願うほど、福澤は岩田の恩人だったといえよう。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事