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【福澤諭吉をめぐる人々】
中村道太

2017/01/01

丸善雄松堂株式会社蔵
  • 末木 孝典(すえき たかのり)

    慶應義塾高等学校教諭

福澤諭吉の周囲には才覚を生かして成功した実業家が数多く存在した。今回取り上げる中村道太(なかむらみちた)はその1人である。富田正文氏や坂井達朗氏がすでに『三田評論』で紹介された内容をふまえつつ、本稿では福澤と中村の関係を中心に紹介し、謎とされてきた中村失脚の真相に迫りたい。

福澤との出会い

中村道太は、天保7(1836)年、現在の愛知県豊橋市に生まれる。父は三河国吉田藩勘定方の中村哲兵衛で二人扶持(ぶち)の下級武士であった。応変流柔術という武芸と算盤を特技とする家で、道太も武芸と算盤両方の塾の師範として門下生を育成した。特に算盤は達人の域にあったという。福澤の『西洋事情』を読んで興味を持っていた中村は、慶應2年に藩命で江戸に出た際に紹介もなく鉄砲洲を訪れ福澤に会うことができた。福澤は年も近い中村を旧知の友のように歓待し、出版する本を綴じる糸は絹と麻のどちらが良いかと言う福澤に、中村はそれは職人に任せて本の執筆に専念したらどうかと返した。中村は福澤の『帳合の法』を最も理解し商売の実践に生かした人物であったと評価されているが、正式に福澤塾で学んだことはなく、福澤にとって実務を任せることのできる盟友ともいえる関係であった。

中村は、福澤の推薦により明治5年10月、早矢仕有的(はやしゆうてき)が経営する丸屋商社(後の丸善)に入り共同経営者となった。中村は丸屋の帳簿を一新して西洋式簿記を取り入れ、6年には丸屋商社内で「帳合の法」を講義し始めている。郷里豊橋でも銀行組織である朝倉屋積金所を設立し、また第八国立銀行設立に奔走し、10年2月に開業させた。

横浜正金銀行の設立

その後、愛知県の渥美郡長を務めたが、福澤から上京を促され、郡長を辞職した。これは貿易金融を外国銀行によらず日本の銀行で手掛けることで福澤と当時参議だった大隈重信の意見が一致したためであった。中村は福澤から確かな人物として大隈に推薦され、実務担当者として銀行設立に従事し、13年2月横浜正金銀行の初代頭取に就任した。しかし、松方デフレで経済が冷え込む中、15年7月、貸付金焦げ付きの責任をとり中村は頭取を辞任し、額面100円のところ90円に下落した正金銀行株を2千株引き受けさせられた。17年5月には丸屋銀行が行き詰まり、その処理にも奔走する。

その後、景気回復により上昇した正金銀行株を300円で三井に売却し、それを元手に同郷の杉本正徳らとともに小真木銀山(秋田県)の再開発を手がけ、成功した。得た金で丸屋銀行の整理を行い、慶應義塾の煉瓦講堂新築(19年着工、20年竣工、23年大学部創設時に校舎として使用)と東京専門学校(現早稲田大学)に各1万円を寄付した。この頃には福澤の信頼を得て福澤家の資産管理を任されるまでになった。学校経営以外にも『時事新報』の発行など携わる事業が増えていった福澤にとって、事業を維持するために資金面で欠かせない人材だったといえる。

また、福澤は何かと中村に人を紹介したり、相談したりしている。金玉均(キムオッキュン)支援のために青木周蔵への周旋を依頼したり、また長沼事件の小川武平にも引き合わせている。20年には福澤が持論の北米移民論を実践すべく、中村と共同でサンフランシスコ郊外に土地を購入し、農業を営む移民を募ったこともある。しかし現地責任者となった井上角五郎が朝鮮政府宛密書事件で逮捕され、計画は頓挫してしまった。

煉瓦講堂
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