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【福澤諭吉をめぐる人々】
中村道太

2017/01/01

中村失脚の真相

さて、中村は小真木銀山を三菱に売却して得た大金で米殻の取引所である東京米商会所の株を買い占め、21年には頭取に就任する。ところが、24年6月17日、農商務省は突如として東京米商会所の臨時監査を実施した。同時に大蔵省も米商会所の取引先である第六銀行本支店に立ち入って取調を行った。これは中村頭取が会所内に保管しておくべき仲買人の身元保証金や売買保証金などの積立金のうち30万円を私的に流用したという密告が政府になされたからといわれる。いわゆる米商会所事件である。米商会所・第六銀行は営業停止となり、中村は拘引され、農商務省に告発された(判決は重禁錮1年6カ月、罰金15円、監視6カ月)。

当事件については、松方内閣による政敵大隈攻撃の一環として資金源である中村を葬ろうとしたという説や、自由党員から政治資金調達を求められた中村が断ったため、腹いせに政府に密告されたという説が存在するが、事件の真相は「闇に包まれている」(坂井達朗「早矢仕有的・中村道太」『三田評論』1086、29頁)といわれてきた。今回、新たに見出した資料を使って事件の真相に迫りたい。それは品川弥二郎内務大臣に宛てた陸奥宗光農商務大臣の6月29日付書簡である。

「米商会社之話も斎藤等が骨折にて大方まとまり可申、中村道太え対し今日農商務省より裁判所へ告発いたし申候、多分明日比は道太は拘留せらるべし。若し都合よく参り候へは賊巣を一洗し得へき歟(や)」(『品川弥二郎関係文書』7、山川出版社、2009年、161頁)。

この書簡により、少なくとも陸奥は中村を資金源とする大隈ら改進党攻撃の意図を持っていたことがわかる。ただし、斎藤修一郎農商務省商工局長の「骨折」は、恐らく以前から米商会所の組織改革を手がけていることを指していると考えられる。農商務省は20年に取引所条例を制定し米商会所への統制を強めようとしていたが、同条例を実情に合わない改革として福澤が批判したこともあり施行は延期されていた。そして前年の23年恐慌での米の投機による価格高騰で米商会所は世論の不評を買っており、福澤も中村に証拠金取扱いの不明朗さを指摘する世間の噂を伝え、会所が即時精算できない点を心配していた。同省にとって福澤の盟友である中村頭取の不正の風説は世論を味方につけ改革を進める絶好の機会となった。

そして陸奥は自由党と改進党の分裂を煽るため、自由党の大井憲太郎らが企画している米商会所事件に関する演説について、以下の通り品川内相に中止や解散をなるべくさせない配慮を求めた。「此演説は中村を攻撃して其余波は早稲田辺にも可及」、「此機或は両党分裂之兆を可表事」、「演説は大抵なれは(法律上許せるなれは)中止若くは解散せす其攻撃を了らせ申度、是等之事は下僚にも明言致かたき事なれ共、貴大臣の御手心にて何となく警視庁へ御下命被成下(なしくだされ)」(同前書、161―162頁)。

衆議院における政党勢力の攻勢に手を焼いていた藩閥政治家の目に、当事件は大隈の資金源を断ち、取引所改革に立ちはだかる福澤を叩き、自由党と改進党の関係に亀裂を生じさせる千載一遇の機会に映っただろう。明治14年の政変後、権力闘争に敗れた大隈系・慶應系の政治家・官僚は下野したが、十年後、再び大隈系を追い落とすため、中村は政治の力によって狙い撃ちされ実業界で失脚させられたのであった。福澤は「中村道太さんもとうとつぶれたり。金の不足は40万計と申なり。唯今は中村を外にして米商会社の存廃恰(あたか)も国家問題となり、中村は已に割腹したると同様」(『福澤諭吉書簡集』7、90頁)と嘆き、米商会所改革との関連を示唆している。

晩年

米商会所事件で失脚し、重禁錮1年6カ月(未決収監4カ月を除くと1年2カ月)の刑が確定した中村は私財を抛(なげう)って責任をとった。一時、三井からの融資を期待して福澤から中上川彦次郎へ話を通してもらったが失敗に終わると、以後隠棲を決め、社会の表舞台に姿を見せなかった。隠棲後の生活では、有楽流茶道の家元を継いで後妻とともに青山に住み風流な生活を送ったことや、豊橋や名古屋での姿を見かけた話などが伝わっている。福澤家の金銭出納帳には32年に5千円を中村に貸した記録や年末に700円が返された記録が残っており、金の工面には苦労していたことがうかがえる。そして、大正10(1921)年1月3日、中村は東京で死去した(84歳)。墓は豊橋の妙円寺にある。横浜正金銀行は中村に対して亡くなる前年に功労金1万円を贈った。

福澤がみる中村の人物像

中村の人となりについて、福澤は「経済社会中之一仙翁」(『福澤諭吉書簡集』9、107頁)、「筆無精之性質」(同・3、141頁)と表現している。筆まめで人間関係を重視する福澤とは対照的に、中村は居所が分からないことが多く、周囲に所在を確認する福澤の手紙が複数存在している。また、米商会所事件後破産した中村に対して福澤が「何か内々に用意しているものはあるでしょう」と聞くと、中村は「何もなし」と答え福澤を驚かせている。中村は才覚に富んだ人物ではあるが、密かに蓄財するような用意周到さや悪知恵を働かせるような気質とは無縁であったことがうかがえる。その点も合わせて福澤は仙人と表現したのだろう。福澤は破産した中村が隠棲した後も変わらぬ関係を保とうと書簡を送り近況を 伝えている。現在78通(『近代日本研究』収録分を含む)見つかっている中村宛福澤書簡中最後の書簡(31年1月5日付)で、福澤は「老生も次第ニ老却、子供之世話は過き去り、今ハ孫が十名ニ相成、随分騒々敷き事ニ候」(『福澤諭吉書簡集』9、10頁)と綴っている。

中村道太は、明治10年代から20年代にかけて福澤が手がける多くの事業に資金を提供し、福澤と慶應義塾に多大な貢献をした人物であった。この功績は政争に巻き込まれた結果の失脚によって消えるものではなく、むしろ一言の言い訳もせず私財を抛って責任をとった潔い生き方は特筆に値する。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです

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