【三人閑談】
よみがえる獅子文六
2017/03/01
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山崎 まどか(やまさき まどか)
コラムニスト、翻訳家。清泉女子大学文学部卒業。「女子カルチャー」に関する映画、音楽、ファッションを中心に紹介している。著書に『「自分」整理術』など。
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岩田 敦夫(いわた あつお)
1953年、岩田豊雄の長男として東京に生まれる。1960年、慶應義塾幼稚舎入学。1977年慶應義塾大学商学部卒業。同年から2010年まで、株式会社ジャルパック(旅行業)に勤務。
復刊で静かなブーム
牧村 昭和の人気作家、獅子文六(ししぶんろく)(本名=岩田豊雄、1893―1969)の作品が近年相次いで復刊され、静かなブームとなっています。
岩田 牧村さんが2009年に評伝『獅子文六の二つの昭和』を書いてくださり、その後ぐらいから徐々に、「作品の一部を収録させてほしい」という出版社からのお問い合わせをいただくようになりました。そして2013年、ちくま文庫さんの、営業から編集に移られた方が父の作品を読んでくださっていたようで、ぜひ自分のところで出したいというお話をいただき、1作目として復刊されたのが『コーヒーと恋愛』(1963)です。これがご好評をいただいて、すでに17刷になっています。
牧村 それはすごい。
岩田 装丁なども新しい切り口で出していただきました。父の昔の作品を読んでくださっていた読者の方に加えて、新しい層の方が関心を持ってくださったというのが大きいと思います。うかがったところでは、若い女性の方も買ってくださっているようで、新たな読者に恵まれたのかなと思っています。
その後、2作目として『七時間半』(1960)を出していただき、以来、年に2冊ずつ出していただいています。また中公文庫さんも、前に出していただいた本を改版して出版していただいています。
山崎 私が解説を書かせていただいた『青春怪談』が1月に出ましたが、発売5日で増刷が決まりました。いままでで最短だそうで、まさに機が熟している感じですね。
牧村 山崎さんはどういうきっかけで読まれたのですか。
山崎 10年ぐらい前に、文化系の若い男の子や女の子たちの間で、昭和の古本の装丁がきれいなものとか、いま読んでも面白いものを掘り起こして再発見するようなブームがあって、その時に獅子文六さんの名前はよく挙がっていました。
私もそのころ、古本で獅子文六を見つけて楽しむ、みたいなことをやっていたんです。『コーヒーと恋愛』は、ロックバンド「サニーデイ・サービス」の曽我部恵一さんが解説を書かれていましたよね。そういうこともあって、獅子文六は、レトロな文学が好きな人の中ではわりと名前が出ていました。
女性の店主がやっている古本市などでは、小説だけではなくエッセーもたくさん並べられていました。『私の食べ歩き』(1976)とか、夫婦相談の『夫婦百景』(1957)とかも人気があったのです。私も機会があれば「獅子文六のファンです」と言うようにしていました(笑)。
牧村 そういう人たちは、ほかにどんな作家を読むんでしょう。
山崎 尾崎翠がとても人気がありました。日記によく獅子文六のことを書いていて、「尾崎翠も獅子文六の大ファンだった」みたいな情報も知られ始めていました。
もちろん私たちは、獅子文六の最盛期というのを体験していませんが、たくさんの映画が残っていますよね。ですから、古本屋で獅子文六を集めて、同時にそれを名画座で見る、みたいなことも流行っていたんです。
牧村さんは、近年のブームをどのようにご覧になっていますか。
牧村 僕が若いころは、獅子文六を読みたいと思って本屋へ行っても、まったく手に入らなかったんです。
大正生まれの私の父が慶應の出で、書棚に文六さんの本がいくつもあった。それを中学時代から読んでいて面白いなと思っていました。15年ぐらい前かな、朝日新聞の読書欄を担当していましたが、仕事がらみで『娘と私』(1953―56)を読んだところ、2度目だったけれどすごく面白くて、新聞の小さなコラムにそのことを書いたんです。
そうしたらすごい反響が来ました。それは山崎さんみたいな若い世代ではなくてオールドファンからですが、「女学生時代にこれを読んだ」とか、「戦争の時に『海軍』(1942)を読んで私は海軍に行った」とか、自分の人生や昭和史と、文六さんの作品や生き方を重ねる人たちがたくさんいらっしゃったのです。
それで、この作家は、潜在的な読者がすごく多いんだなと思って、片っ端から読みました。僕の記者としてのテーマは「昭和史と文学者」でしたが、文六さんの作品は、軽妙に見えるけれど実はすごく深い教養があって、一時の流行作家みたいな扱いは本当にもったいないと感じました。それで『二つの昭和』を書いたんです。オールドファン世代と、あと山崎さんみたいな若い世代の層と、その2つがいま重なっているのではないでしょうか。
山崎 いままで本屋さんに置いていなかった作品が並び始めて、買い直している昔のファンもきっと多いと思います。
牧村 そうかもしれません。こういうことは珍しいんじゃないか。オールドファンだけでなく、若い読者が食らいついてくる。これが文六さんのすごさだなと思います。
自らを律する文学者
山崎 昔、獅子文六という名前がどれぐらい大きかったのかはよく分からないのですが、『青春怪談』(1955)や『自由学校』(1951)は、出版されてすぐ映画会社が競作で、同じ年に同じ原作で映画化しています。
そして『娘と私』はNHKの朝ドラの第1作の原作ですから、それを考えると相当な人気作家だったんじゃないでしょうか。
牧村 僕も同時代ではないですが、本当に流行作家だったと思います。角川文庫や新潮文庫の棚にずらっとたくさん並んでいた。それから、おっしゃるように、同じ原作、同じタイトルの映画を大映と松竹が同じ日に公開した。しかも当時は映画の最盛期です。
岩田 私は父が還暦の年に生まれたので、小さいころしか作家としての父を見ていません。父は家で執筆していて、午前中、原稿書きをして、午後、いろいろな方が家に来られるというのが毎日の暮らしでした。演劇もやっていたので、出版の方や演劇の方が毎日欠かさずにいらっしゃっていましたね。
山崎 そのころのお家はどちらですか。
岩田 東京の赤坂です。
山崎 やはりお忙しそうにしていたという印象ですか。
岩田 ただ、いわゆる「作家」というイメージと違って、時間をすごくきっちり守る人でした。朝のうちに何枚と決められた量の原稿を、本当に規則正しく書いていました。
山崎 しかも午前中にきちんとやるというのがすごいですね。最近読んだ『天才たちの日課』という本に、いい作家は午前中に仕事をしていると書いてありました。
牧村 夜中に書いているようなイメージですけどね。
山崎 私もそう思っていました。獅子文六さんの日課が知りたいですね(笑)。早起きでしたか。
岩田 7時ぐらいには起きて、原稿を書いていましたね。年齢的に、私が知っている父は、おそらく書き手としてはすこしピークを過ぎていたとは思います。
牧村 文六さんはきちっとした人で、いわゆる無頼派的、文学青年的なものはあまり好みではなかったようです。新劇をやっていて「文学座」の立ち上げにも関わっておられますが、演劇人もそのへんは結構だらしない人が多いというか(笑)、のめり込んでしまう人もいる。彼はそういうタイプではありませんでした。
例えば原稿の締切は絶対に守る。文学者だからといった甘えは自他ともに許さない人だったみたいですね。他人にも厳しかったらしい。例えば原稿料なども、業界では暗黙の了解みたいなところがあるものですが、そこも文六さんはしっかり確認していた。そしてそのために自分も締切を守る。編集者が少しだらしなかったりすると、文六さんからきつく叱られたということを先輩から聞いたことがあります。
山崎 いろいろな面できちんとしていたのが、あれだけ多くの作品につながったようにも思います。
牧村 それと、特に若い時は大食漢でしたよね。岩田さんが生まれる前、千駄ヶ谷にお住まいだった時期があります。
まだ40代でしょうか、午前中に仕事をして、昼飯をいっぱい食うらしい。それで日本青年館とか国立競技場のあたりを1時間以上かけて散歩をして腹ごなしをする。大酒飲みではあるけれども自分を律した暮らしでした。ものを書くための時間を午前中にきちっと取るのもそうですが、合理的な考えの人だったんですね。
山崎 おうちの中でも、お子さんに生活を律するということをおっしゃっていたのでしょうか。
岩田 いえ、そういうことはあまり言わなかったです。父も20歳くらいのころは生活が荒れていたこともあったようですね。
ただ、お金に対しては厳しいところがありました。買ってもらったばかりの腕時計をなくしてしまった時なんかはすごく怒られました(笑)。でも、どちらかというと「男の子なんだから好き勝手にやりなさい」という感じでしたね。
山崎 フランスに留学されていたこともあって、獅子さんの作品はとてもおしゃれな印象を受けます。食べ物や女性のお洋服の描き方とか、きちんとしているのと同時に上手だし、すごくしゃれている。本人はきちっとしていらしたということですが、だらしのないキャラクターを描くのもお上手ですよね(笑)。
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牧村 健一郎(まきむら けんいちろう)
ジャーナリスト。早稲田大学政治経済学部卒業後、朝日新聞社入社。記者として主に文芸、書評、昭和史などを担当。著書に『新聞記者 夏目漱石』『獅子文六の二つの昭和』など。