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【三人閑談】
よみがえる獅子文六

2017/03/01

昭和の大流行作家

山崎 獅子文六の人気のピークというのは、いつごろになるのでしょうか。

牧村 戦前にも、戦後にも大ヒット作があります。戦前は『海軍』がものすごく売れて、朝日賞という朝日新聞主催の賞を藤田嗣治などと一緒に受賞しています。このころが作家としてのひとつのピークだろうと思います。戦後、『てんやわんや』(1949)や『自由学校』でまた人気が出て、『大番』(1956―58)などは大ヒットでしたよね。戦後だと、昭和30年前後が一番忙しかったのではないでしょうか、ちょうど岩田さんがお生まれになったころ。

岩田 思いがけなく生まれてしまったので、ミルク代を稼ぐので大変だったんでしょう(笑)。

山崎 藤田嗣治と獅子文六はどこか重なるところがあります。

牧村 どちらもフランスに留学していますね。

山崎 ええ、『海軍』と、「アッツ島玉砕」のような戦争画とのつながりをすごく感じます。

私たちの世代は、戦後の『てんやわんや』や『大番』が大ヒットしたことは知っていますが、『コーヒーと恋愛』とか『青春怪談』あたりがすごく好きというところがあって、当時大ヒットしていたものと、いま若い世代に受けているものとで少しズレがあったりするのも面白いですね。

牧村 確かにそうですね。『自由学校』や『てんやわんや』は、文六さんがうまく軽く書いているけれども、それでも重い戦争の雰囲気がありありと残っている。一方で、『コーヒーと恋愛』や『青春怪談』は、昭和30年ころ、高度成長時代の始まりの時期で、戦争という重みがうすれて、少し軽く、明るくなってきた時代の作品です。その雰囲気がいまと、シンクロしているのではないでしょうか。

山崎 今回、解説を書くために『青春怪談』を改めて読んでみたのですが、旧世代と新世代の両方が出てきます。旧世代の抱えている戦争の記憶が色濃く出て、だからこそ若い世代は自由に生きるべきなんだということがメッセージとしてものすごく伝わってきます。

いまの若い世代は、当時の戦争とはまた違ったいろいろな軋轢に苦しんでいるところがあって、そこに対して、自由に生きなさいと言われているような感じです。『コーヒーと恋愛』もそうだし、『悦ちゃん』(1937)もすごく軽やかで。

牧村 男らしさとか女らしさとか、そういう固定観念をとっぱずして、もっと肩の力を抜いて、という感じですよね。

山崎 ええ、いまオールドファンもいて、リアルタイムのファンもいて、牧村さんのような、言わば再発見の世代もいらっしゃる。だから、何回も発見されるタイプの作家ではないでしょうか。

牧村 一言でいうと、古びないということだと思います。夏目漱石もそうですが、流行作家は皆、その時代の出来事や風俗を素材にして書きます。それで古びてしまう作家もいるけれど、漱石も文六さんも決してそうならない。素材は古びるかもしれないけれど、テーマは永続的である。だから僕は、本屋さんからなくなってしまっても、それで滅びるような作家ではないと思っていました。

山崎 本屋さんから一時期なくなったというのは、売れ過ぎてしまったようなところもあるのでしょうか。

岩田 読者の方と、プロの評論家の方では評価が違っていたのかなと思います。いわゆる「歴史に残る作家」というジャンルにはなかなか入れてもらえなくて、ちょっと離れたところにいるような。

山崎 文壇での評価というのはどうだったんでしょう。

牧村 文六さんの主な舞台は新聞と『主婦之友』ですよね。新聞小説家というのは、ちょっと軽く見られるところがあったのかもしれません。いわゆる文壇からはほとんど取り上げられなくて、獅子文六論などというのは当時なかったし、いまもほとんどない。

ただ、個人的な親交もあったのかもしれませんが、小林秀雄や阿川弘之などは、文六さんをすごく評価しています。

山崎 軽やかで明るくて、というものは軽視される傾向があったのでしょうか。

牧村 やはり私小説で、人間の内面を真面目にぎりぎり追求していく、というのが文壇の主流で、文章も凝りに凝ったものでなければならない。「文学の神様」みたいなものが一番高級だと言われていましたから、ちょっとタイプが違いますね。

演劇人ならではの作風

山崎 獅子文六の作品は、どれもユーモアにあふれています。そのユーモア感覚や明るさ、軽さというのはどこから来ているのでしょうか。

岩田 やはり、演劇から入っているところが大きいと思いますね。

牧村 そうですね。出発点が演劇人ですから、何といってもセリフがうまい。カギカッコがすばらしい。

旧来の小説家は、地の文をいかにうまく書くかで勝負しますよね。文六さんは、フランスの現代演劇を学んで帰ってきていますから、セリフの妙というか、いわゆる決めゼリフがうまいのです。例えば『自由学校』の五百助と駒子。駒子が五百助に「出ていけ!」と言う。この「出ていけ!」という一言は、本当に演劇の世界だなと思います。このような決めゼリフがいくつもある。演劇人であったということが、文六文学の決定的なキーワードではないかな。

山崎 それが、あれだけ多くの映像化にもつながっている。

牧村 おっしゃるとおりです。起承転結があって、シーンがくっきり分かれていて、それで最後の結末をちゃんと残してある。書き割り的、段取り主義だと言われるけれど、彼は教養があるから1つ1つのシーンが実に深い。

山崎 キャラクターが立っているけれども、類型でないという面白さがあります。分かりやすいキャラだけど、陰影がちゃんとある。俳優さんもやりがいがあるんじゃないでしょうか。

あと、映画を見ていると小説を忠実に起こしているものがとても多いのですが、それは、小説がそのままでも映画になるように書かれているからだろうと思います。絵がパッと浮かびますよね。

牧村 そう、非常に映像的です。

山崎 くどくどディテールを書いているわけではないけれど、パッと目に浮かぶ感じ。特に感心するのは、街の描き方がすごく上手で、実際に行ってみたくなる。あるいは、「ああ、あそこか」って分かる。

岩田 今度の『青春怪談』でも、赤坂とか、鵠沼(くげぬま)というところが出てきます。鵠沼は父の弟がずっと住んでいた場所です。ですから私が読んでいても、あっ、これはあそこだな、と分かりますね。

山崎 『青春怪談』って、実は移動距離がすごく長い小説ですよね。女性の家は鵠沼のほうにあるし、男の子の家は赤坂の文化住宅です。旧世代の2人が会うのは小金井の霊園で、最後が向島百花園。とても移動距離が長い。それだけのロケーションを上手に使える作家ってそうそういないと思います。この点も、映画映えする作品だなと思います。

私は、『悦ちゃん』もすごく好きなんです。これも非常に映画的で、東京の街が舞台だけど、ハリウッドのシャーリー・テンプルの映画を見ているような気持ちにさせられる。東京の街を舞台にしていながら、あんなハイカラな感じの小説はあまりないように思います。

牧村 映像的というのも、若い世代に受け入れられやすい要素なのかもしれません。

山崎 ええ、『七時間半』もそんな感じで受け入れられています。東京から大阪まで7時間半かかった時代。その7時間半という枠内で、かつ列車内という限られたロケーションで、いろいろなドラマが展開していきます。

牧村 第1幕第1場、第2幕第1場、第2場といったシーンがありますよね。演劇人だったから、第3幕のここはこういう場面にする、といったことを常に頭に置いて書いていたのかもしれません。

山崎 獅子文六の書いた戯曲というのはいろいろあるのですか。

牧村 たくさんはないけれど、あります。一番有名なのは『東は東』(1933)です。これはぜひお読みいただきたい。短いけれどシリアスな芝居で、異文化理解が本質的にいかに難しいかというのがテーマです。文六さんの最初の奥さんはフランス人で、お子さんが生まれたけれどもうまくいかなくて、フランスに帰って亡くなりました。その痛切な体験をもとに、時代や男女の役を置き換えて、別の世界、異人種との共同生活がいかに大変かを描きました。いまでは国際結婚は珍しくないですが、非常に現代的なテーマですね。

山崎 小説が文庫でこんなに復刻しているのだから、演劇のほうも見てみたいですよね。いまの俳優さんたちがやるとまた違うでしょうから。

牧村 それこそ文学座あたりでね。

山崎 ええ、やってみてほしいです。

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