【福澤諭吉をめぐる人々】
渡辺重石丸
2026/02/13
京都へ赴く
明治を迎えると、重石丸は公職で活躍するようになる。明治元年、重石丸は奥平昌邁(まさゆき)によって行政官を命じられ再び上京、翌年には京都御所御用掛・京都御所講官に任命された。機関の閉鎖や統合に従って役職は変化するが、大学御用掛など重石丸の見識が評価された登用であったことが見受けられる。また明治3年には中津藩京都詰家老から宣教使への出仕を命じられるも断っている。明治初期、このような業務のかたわらで重石丸は積極的に著作執筆活動を行い、国学者としてのキャリアを本格的にスタートさせたことがわかる。明治5年には教部省出仕・考証掛を任命され東京に上京、以後は東京を中心に活動した。
一方で重石丸不在の中津では、道生館閉校によって学ぶ場を失った門下生が苦慮していた。また明治2年ごろより、旧中津藩幹部は福澤の助言によって洋学教育を推し進め、そのことに増田や道生館の面々が憤る様子が、彼らが重石丸に宛てた書簡から伝わる。彼らは福澤が洋学校設立にどのような条件を出しているか、皇学(国学)には何のお世話もなく困っている、ということを細かく重石丸に報告した。
その軋轢は明治4年に開校した洋学校・中津市学校と道生館を継承した皇学校まで続いた。福澤は明治6年4月15日付の島津復生宛書簡において、「中津の学校も依然たるよし。何卒静にして独立の本趣意を持張いたし度、官の学校えカラカウ抔(など)、以の外の義、万々一も左様の気振無之様御注意奉願候。」と記し、無用な対立を避けるよう気を配った。
結局、重石丸は教育者として中津に戻ることはなかったが、門下生とは交流を続けた。明治10年、西南戦争に門下生が挙兵した知らせを聞いた重石丸は現地に赴こうとしたが、父の制止もあって断念した。増田が鹿児島で戦死した際には哀悼の歌を寄せ涙を流し、職を辞した。その後、明治15年に麹町に道生館の名前を継承した塾舎を建設し、以後著作執筆と教育活動に専念した。
福澤諭吉と渡辺重石丸
福澤が重石丸に言及した記録はあまりないが、重石丸が幕末から明治初期を振り返った「鶯栖園遺稿」には度々福澤が登場する。例えば、福澤の母・順が福澤の蘭学修行をどのように捉えていたか。『福翁自伝』では、兄の死後に家督を相続したにもかかわらず、再び大阪に蘭学修行に行くという福澤を親類が止める中、順は「兄が死んだけれども、死んだものはしかたがない。お前もまたよそに出て死ぬかもしれぬが、死生(しにいき)のことはいっさいいうことなし。どこへでもでていきなさい」と言って、豪快に息子を送り出したエピソードが知られている。
一方で「鶯栖園遺稿」では、大橋仲太郎という自身の身内に順が「蘭学など決してサセナサンナ、蘭学をさすると諭吉の様ナ親不孝者ニ成る」と話していたことが記されている。また晩年東京で暮らす順に、福澤は毎月5円のお小遣いを渡したが、これについてもお金があるからくれるのであって、孝行心からではない、と断じていたことも、大橋から聞いた話として紹介される。冒頭の和歌が示す通り、重石丸は福澤に好意的とは言い難く、慎重に検討する必要はあるが、『福翁自伝』以外に資料の少ない福澤の青年期に関する貴重な記述が見られる。
また、福澤が封建的な中津を飛び出し蘭学を学ぶ契機となった長崎留学にも、重石丸は関係している。「鶯栖園遺稿」には、「家老奥平十学(奥平壱岐のこと)、蘭学に志し長崎に留学せり。諭吉之機として十学に寄食し志す所を成さむと欲す。急に思慮を翻して長崎に赴んと云。於是乎家蔵の漢籍(福澤の父百助兄三之助は漢学に長じ殊に三之助ハ詩才ありき)を挙て売却す」と書かれており、諭吉が長崎留学に赴く際、渡辺家に蔵書を売り払い、留学費用を捻出していたことが明らかになった。
実際に現在調査中の渡辺家資料からは、6巻すべてに「福澤家蔵」の印が押された『荘子因』1巻~6巻が発見された。虫食いや破損があるものの、質のいい唐本で、諭吉の父・百助が収集した典籍だと考えられる。学者肌の百助は質量ともによい蔵書をもち、その数は1500冊ほどあったが、『福翁自伝』では中津藩内では買い取るものがおらず、当時臼杵に出仕していた白石照山に買い取ってもらったと記されるが、それより前に一部を渡辺家に売却していたのである。先行研究では、福澤家がどのように諭吉の長崎留学費用を捻出したかについては、野本塾や野本塾に通っていた兄・三之助との関係性をもとに考察がなされている。重石丸と福澤という思想が全く異なる2人だが、その契機が同じ塾にあったことは非常に興味深い。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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