【福澤諭吉をめぐる人々】
福澤桃介(上)
2025/02/26
念願の洋行
桃介に結婚と養子縁組への決断を促したのは、「大意」の4つ目、5つ目の項に書かれた、諭吉の貯めていた資金で海外留学をさせてくれるという条件に尽きる。桃介はのちに「生まれてから一番嬉しく感じた事」として2つの出来事を挙げているが、その一つが「福澤先生が洋行させてやると言われた時」であったと語っている。
明治20年2月、岩崎改め福澤桃介は、アメリカに渡り、義兄となった一太郎が留学しているニューヨーク州の町ポーキプシーに着いた。諭吉が、同じく留学中の捨次郎に宛てた書簡には、桃介のことを「此少年は活発にて貴様と相投じたるよし。取りも直さず貴様の弟なれば百事添心可然(こころをそえてしかるべし)。決して頑固物にあらず、颯々(さっさつ)と人のいふ言に従ひ可申存候(もうすべくぞんじそうろう)」(書簡1184)と紹介している。諭吉の見立ての通り、捨次郎は度々福澤家の規格を超える義弟を支え、生涯親しく付き合った。諭吉が留学中の一太郎、捨次郎にまめまめしく手紙を送ったことは広く知られているが、桃介宛てにも頻繁に手紙を認める一方で、桃介からも返信するように求めた。
その後、桃介は捨次郎のいるボストンに移り、さらに「鉄道マネージメント之実際を習ふてハ如何ニ存候」(書簡1154)という諭吉からの手紙の指図に従ってペンシルべニア鉄道会社に勤めた。ペンシルべニア州フィラデルフィアには、諭吉の門下生で自由民権運動家の馬場辰猪がいた。桃介は馬場の演説の前座を務め、日本の大政治家として馬場を紹介すると、鎧兜を着た馬場が登場して武士道を講釈し、見物人から見世物料をもらって生活資金を稼ぐという手伝いもした。馬場が病に倒れ客死したとき桃介は旅行中のため不在で、岩崎久弥(弥太郎の長男、のち三菱財閥の3代目総帥)が葬式の面倒を見た。のちに桃介が政治家を志し憲政擁護を訴えたとき、当時の馬場からの影響に触れている。
養父の傍らで
桃介は、留学中に父の紀一と母のサダを立て続けに亡くすという不幸に見舞われた。2件の訃報を桃介に知らせたのは、諭吉である。諭吉は桃介に対し、留学先で勉学を続けるように励ましつつ、「最早此上ハ名のみニあらず、実之父母も東京之三田に在ると思ひ」(書簡1274)と慰めた。
3年弱のアメリカ生活を終えて帰国した桃介は、約束通り諭吉の次女房と結婚した。就職先も諭吉が用意していた。諭吉が熱心に設立に関わった北海道炭鉱鉄道で、月給は破格の100円であった。同じ塾出身で洋行帰りの武藤山治(のち鐘紡を日本有数の企業へと導く)が三井銀行で受け取った初任給は25円だから、桃介の月給の大部分は諭吉に配慮されたものに違いなかった。桃介は、房を伴い札幌に着任したが、房が妊娠し、房の希望か、錦が心配して働きかけたのか、北海道の冬を越さぬ間に東京支社売炭係支配人という肩書で帰京した。やがて日清戦争が勃発すると、多くの船が御用船として徴発され、石炭を運ぶ船を失って商売にならなくなった。桃介は、船を探し求めて英国船の買い付けに成功したが、船の受け渡しが行われた甲板上で血を吐き、肺結核と診断されて、北里柴三郎の経営する養生園に入院した。
合わせて8カ月ほどの入院生活後、大磯で静養することになった桃介は、暇なうえに今後の生活費の確保に不安を覚えた。そこで思いついたのが株式相場である。桃介は凝り性である。興味関心を持つと徹底的に研究し、さらに独自の工夫(これを自身は「桃介式」と称した)を加えて、余りある月給から貯蓄してきた3,000円のうち1,000円を株式相場に振り向けた。放胆にして細心、淡泊にして執拗という相矛盾する性格を持ち合わせた桃介に株式相場は向いていたのだろう。1年ほどで1,000円は10万円(今日の数億円相当)に膨れ上がっていたという。
やがて健康も快復し、旅行もできるようになると、諭吉から京阪・山陽道を巡る家族旅行(明治30年)に一緒に行こうと誘われた。桃介は、旅行中も株式相場の値動きに気が気ではなかったが、傍らにいる諭吉は、何より投機が嫌いである。桃介は、旅行中、電信による指図もできずに保有する株式をそのままにした。帰京すると、桃介の不安は的中していて、相場は暴落の様相であった。観念した桃介は、株式を売り払い、儲けを半分に減らして株式相場から手を引いた。
桃介は自著で、この旅行中の諭吉の「面白い話」を紹介している。宮島に参拝したところ、神主から榊を渡された諭吉は、それをどうしたらよいのか分からず、後ろを振り返り6歳になる孫の中村壮吉(長女里の子)に「壮さん、どうするかい」と尋ねたという。傍らで見ていた桃介はこらえきれずにクスクスと笑った。桃介いわく「窮すれば賢者も愚者も英雄も凡人も皆同じ」である。諭吉の思い出話に、あえてこのような「面白い話」を取り上げて、諭吉を偉人として祭り上げることを嫌うところが、「桃介式」なのである。
(次号に続く)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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