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【福澤諭吉をめぐる人々】
馬場辰猪

2016/10/10

  • 結城 大佑(ゆうき だいすけ)

    慶應義塾ニューヨーク学院教諭・福澤研究センター所員

明治29(1896)年11月2日、福澤諭吉は谷中・天王寺で行われた馬場辰猪(ばばたつい)の没後8周年祭に参列した。このとき犬養毅によって代読された「馬場辰猪君追弔詞」のなかで福澤は、「君の形体は既に逝くと雖も生前の気品は知人の忘れんとして忘るゝ能わざる所にして、百年の後尚お他の亀鑑たり」と記して、馬場を讃えた。ちょうど、芝公園内の紅葉館で開催された慶應義塾故老生懐旧会において、福澤が、慶應義塾の目的は「我日本国中に於ける気品の泉源、智徳の模範」たらんとすることにあると演説した、次の日のことである。

英語を学ぶ

馬場は嘉永3(1850)年5月15日、現在の高知県高知市に、父・土佐藩士馬場来八、母・虎の次男として生まれた。13歳の時に藩校・文武館に入学するとすぐに頭角を現し、この時代の要請で藩が洋式海軍整備の必要性を認識すると、慶応2(1866)年3月には、江戸で蒸気機関学を学ぶ留学生に選ばれた。

江戸に到着した馬場は、欧米から伝来した蒸気機関学を学ぶためには原書に当たることが必要と考え、英語を学べる学塾を探した。そこでたどり着いたのが、鉄砲洲の福澤塾であった。前掲の「追弔詞」のなかで福澤は、当時の馬場を、「顔色の美なるのみに非ず、その天賦の気品如何にも高潔」で、「文思の緻密なるものありて、同窓の先輩に親愛敬重せられ」たと振り返っている。

慶応3年末に一度土佐に戻った馬場は、翌年、さらなる英語学習を志して、長崎に向かう。しかし、長崎では十分に英語を学べないことを知って再度の江戸行きを望み、明治2年1月、新銭座に移転していた福澤塾、すなわち慶應義塾の門を叩くことになる。鉄砲洲時代に比して「英語の勉学法が非常な進歩をなしたことが直ぐ分かった」(馬場狐蝶訳「馬場辰猪自伝」)馬場は、『ウェーランド経済書』を始めとする多くの原書を読むと同時に、原書の会読や素読を担当する教師として1年ほどを過ごした。

イギリス留学

熱心に原書に当たっていた馬場が、欧米で学んでみたいと考えたのは自然であったかもしれない。土佐藩が数人の藩士を留学させるということを聞くと、急いで藩役人に頼み込み、藩費留学生としてイギリスに渡ることになった。修得を命ぜられた学問は、海軍機関学である。

明治3(1870)年9月、イギリスに到着した馬場は、まず英語や幾何、地理、歴史を学び、翌年10月からはロンドンのユニバーシティ・カレッジで物理学の聴講を始める。

ところが馬場の関心は早くから他に移っていた。明治5年8月に岩倉使節団がロンドンを訪問した際には、法律学修得を願い出て許可されるとともに、官費留学生に切り替えられ、テンプル法学院に通った。加えて馬場が強い関心を示したのが、イギリスの議会政治であった。当時のイギリスは、のちに議会政治の黄金期と呼ばれるように、自由党と保守党とが下院で白熱した議論を展開していた時期に当たる。馬場は下院に通って、国民の意志が選挙を通して国政に反映される仕組みや、言論の自由が議会政治の基盤にあることを目の当たりにした。この経験は、馬場の人生に大きな影響を及ぼすことになる。

明治6年12月に官費留学生の一斉召喚を日本政府が決定すると、馬場は翌年末に帰国する。しかしすぐに再留学を希望し、福澤から500円の援助を受けて、明治8年6月に再びロンドンの土を踏んでいる。

その時出会ったのが、馬場の帰国と入れ違いでロンドンへ留学していた、小泉信吉(のぶきち)と中上川彦次郎である。彼らは福澤から託された馬場宛の書簡を持っていた。この書簡で福澤は、欧米諸国に対抗するためには「民心の改革」が必要だと主張し、「結局我輩の目的は我邦のナショナリチを保護するの赤心のみ」と続けている。随所で「国の独立」を訴えた福澤の心情がここにも表れているが、その上で福澤は馬場に対して、「飽(あく)まで御勉強の上御帰国、我ネーションのデスチニーを御担当被成度(なられたく)」と期待を寄せている。

この期待に対する馬場の所感のようなものは残っていない。しかし馬場はこの後、法律学修得に邁進し、議会政治の特質を摑もうと努力を続けた。下院の傍聴だけでなく、当時の野党・自由党が各地で開催した集会にも足を運んで、政党が国民に支持を訴える様子を見て回った。福澤の期待が馬場の原動力になったことを想像せずにはいられない。

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