【福澤諭吉をめぐる人々】
馬場辰猪
2016/10/10
自由民権運動への参加と挫折
馬場は明治11(1878)年5月、日本に帰国した。自由民権運動が盛り上がりをみせ、国会開設を要求する声が大きくなっていた頃である。イギリスで議会政治こそ目指すべき政治形態であると確信していた馬場は、こうした風潮に接して、「民衆を教育することを試みることゝ、彼等の輿論に訴へる機関を見附けることゝが必要であると考へた」(前掲「馬場辰猪自伝」)という。まさに、「民心の改革」の先頭に立とうと決意したわけである。馬場は共存同衆、交詢社といった啓蒙組織に所属して、議会政治のあり方などを、主に演説を通じて論じていった。交詢社では、創設委員に選ばれ、評議員にもなっている。
そうしたなか、かねてより自由民権運動を抑圧してきた政府は明治13年4月、さらに集会条例を公布し、演説会の開催には警察署の許可を必要とすることなどを規定した。議会政治の基盤となる言論の自由を脅かす法令である。
この法令が公布されて以降、馬場は政府批判を強めていく。明治14年の政変において国会開設の勅諭が出され、政府がいちおう議会政治のかたちを整えることを宣言しても、批判は厳しさを増していった。明治14年10月には、民権派政党・自由党の結党とともに常議員に就任し、精力的に遊説を行う。党機関紙『自由新聞』を創刊し、主筆にもなった。
ただ、自由党での日々は長くは続かなかった。結党の翌年、自由党総理(党首)の板垣退助は洋行を計画するが、馬場はこの洋行の資金が政府から出ていることを突き止め、政府に対抗しようとする民権派政党として筋が通らないと主張した。この追及に板垣は激昂し、馬場は『自由新聞』から追放されてしまう。板垣に失望した馬場は明治16年9月、自ら脱党する。
その後も遊説を行った馬場であったが、明治17年6月末から約9か月間、演説をしていない。明治18年3月に再開するものの、そこには政府の抑圧に屈しないよう人々を鼓舞する以前の姿はなかった。「雄弁法」と題された演説で語り方の技術を紹介するなど、非政治的な情報の発信に重きを置くようになったのである。
馬場は変化の理由を自らの言葉で説明していないが、萩原延壽氏は馬場の沈黙期について、この期間に各地で起きた、秩父事件に代表される自由党過激派党員による暴動、それを受けた自由党の解党といった、民権派内部の混乱を見て、自分が何をなせるのか「懐疑と模索をつづけていた」のではないかと指摘する(萩原延壽『馬場辰猪』)。その結果として以前よりも消極的な方法を選んだ事実を踏まえるとき、思い浮かぶのは、自由民権運動家として挫折を味わっていた馬場の姿である。
アメリカへ
明治18(1885)年11月、馬場は横浜を訪れていた。渡米準備のためである。その準備を進めていた理由は判然としないが、もう一度欧米で勉強したいとか、日本にいても意味がないとか、様々な思いが折り重なった上での決断であろう。
ところが馬場は、買い物の途中にモリソン商会という、ダイナマイトを取り扱う店に立ち寄ったことが原因で、逮捕されてしまう。容疑は、爆発物取締規則違反である。反政府の立場を取ってきた馬場を刑事に尾行させていた当局は、馬場がダイナマイトを使って政府要人を襲撃すると想像したのである。
結局、馬場は拘留から約半年後に証拠不十分で釈放された。馬場はこの間、イギリス以来の持病である結核を悪化させていたが、釈放後わずか10日でアメリカに向けて出発した。療養の時間も、家族との時間も十分に持たないままの出発であった。それほど日本に失望していたのだろうか。
明治19年6月にサンフランシスコに到着した馬場は、しばらくオークランドに滞在し、11月にはニューヨークに移った。翌年2月にはフィラデルフィアを拠点と定め、その後ワシントンやボストンにも出かけている。アメリカの地で馬場が行ったのは、現地の新聞への投稿や演説を通した、日本政府への批判であった。
馬場の狙いは、日本政府が言論の自由を保障しない様子をアメリカで紹介することによって、日本は封建的な後進国であるというアメリカ世論を作り出すことにあった。そうした世論が形成されれば、当時、条約改正を目指し、欧米諸国と対等な関係を構築しようとしていた日本政府にとっては都合が悪いはずで、その世論を改めるためにも、日本政府は言論の自由を保障せざるをえなくなるだろうというのが、馬場の考えであった。かつて「民心の改革」の先頭に立っていた馬場は、アメリカでも「民心」に訴えることを始めたのである。そこには挫折を乗り越えて再び立ち上がった馬場の姿があった。
しかし、馬場の孤独な戦いは長くは続かなかった。明治21年に入ると、馬場の結核は徐々に悪化し、11月1日、ペンシルベニア大学に留学していた岩崎久弥らに見守られながら、同大学病院で客死した。享年38。その亡骸は、フィラデルフィアのウッドランド共同墓地に葬られた。
死の直前、馬場は日本政府の非を告発する『日本政治の状態』という著作を刊行していた。その表紙にはローマ字で「頼むところは天下の輿論 目指すかたきは暴虐政府」と記されていた。「民心の改革」を掲げていた福澤にとって、最後まで「民心」に訴えようとした馬場を失った悲しみは、大きかったに違いない。
*馬場の自伝は英語で書かれているが、ここでは弟・馬場孤蝶が邦訳して注釈をつけた「馬場辰猪自伝」(『改造』大正10年7・8・11・12月号に掲載、『馬場辰猪全集』第3巻に所収)から引用した。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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